-GOLD- 二人のArthur物語
敗退
大会当日、俺は講義をサボって浅田の試合会場まで向かった。
試合前の選手控え室を開けると、すでに道着に着替えた浅田が一人、ロッカーの前で何かをつまみ、じっと見つめていた。
浅田一人。
他の部員はもう会場に向かっているのだろうか。
そのきりりと精悍な顔が、いつも見るより一段と引き締まっていた。
集中しているのかな。俺が扉を開けても浅田は手の中の何かをじっと見下ろしている。
「お疲れ」
声を掛けると、浅田がようやく気付いたのかびっくりしたように目を丸め、手の中のそれを上衣の合わせ目に慌ててしまいこんだ。
「何、何を隠したんだよ。
あ、分かった!彼女とのペアリング?お守りに?浅田も可愛いとこあんじゃん」
言ってて虚しくなったが、俺はわざと何でもない素振りで笑いかけた。
浅田には“彼女”が居て、浅田を応援してくれてるんだろう。
万が一負けたとしても、
その悲しみを受け止めてくれるのは―――
俺じゃなくその彼女だ。
だけど浅田はちょっと辛そうに苦笑いだけを浮かべて、
「彼女とは終わったよ。もう一ヶ月前かな。俺が剣道ばかり夢中になってたから、フられた」
と言い、俺の頭を軽く叩いて俺の横を素通りしていった。
え―――……?
別れた。
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じゃぁ浅田は―――……
本当に独り。
支えてくれる人も応援してくれる人も居なくて、たった独り。
怪我のことも誰にも教えず、
たった独り
孤独に闘ってきたというのか。
逃げることしか知らなかった俺。
だけどその間でも浅田は一人でも―――立ち向かっていた。
士である“円卓の騎士”に裏切られ、妻に裏切られ
孤独な―――
「アーサー王」
俺がその広い背中に向かって声を掛けると、
浅田はゆっくりと振り返った。
「俺、応援してるから」
浅田がうっすらと笑顔を浮かべる。
「応援してるから!」
もう一度言うと、浅田は大きく頷いて、竹刀の先を俺に向けてきた。
「ありがとな。
怪我のことを知っても、ずっと俺を熱心に応援してくれたお前に、
国をプレゼントしてやるよ。
俺は必ず、守ってみせるから」
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試合会場は大きな体育館だった。
あの小さくて古い道場とは全然違った、しっかりとしたフローリングの床だ。
広い体育館にはたくさんの観客が集まっていた。
“全日本関東地区大学生大会”と垂れ幕が掛かっている。
これを勝ち抜いたら全国大会に行けるらしい。
トーナメント制で、敗退すると全国大会への切符を失うことになる。
浅田は怪我をしているのに、それを苦にもせず順調に三回戦を終えることができた。
ちなみに個人の部で、浅田以外の部員たちは全員一回戦で敗退している。
―――次は決勝戦。
「ぅわ。霧生院大学…アーサーが居るぜ?」
と、すでに試合を終えた他大学の部員だろうか、観客席に座った俺の横で、防具の詰まっているであろうバッグを提げながら、今決勝戦を迎える浅田を見下ろしている。
一瞬俺のことを呼ばれた気がしたけど、よく考えたら違うよね。
浅田……他大学でもアーサーって呼ばれてるのか。
「相手大学、ご愁傷さまって感じだな」
と、すでに試合を終えてもう諦めがついているのか大学生たちが手を合わせている。
「あの!」
俺が勢い込むと、大学生は驚いたように目をぱちぱち。
「あの人、強いんですか?」
俺が聞くと、大学生は最初怪訝そうにしていたものの、すぐに頬を緩めた。
「アーサーは剣道三段…だっけ?」
「いや、四段。かなり強いよ。お姉さんもアーサーのファン?」
と、にこにこ聞いて来る。
“お姉さん”??
お・れ・は!!女じゃない!!
と叫びだしたいのを堪え、それでもすぐに浅田を見下ろす。
「ねね、一人で来てるの?俺らと一緒に観ない??」
と誘ってくるヤツらを無視。
四段……か。
それがどれぐらいの強さを誇るのか俺には分からなかった。
浅田は今試合前の集中に入っているのだろう。
恐ろしいほどの気迫を湛えて、いつもの数倍も迫力を湛えた眼孔で白いラインの内側を睨みながら、
手ぬぐいを顔に掛けると、その裾を唇で挟みながら、器用に後ろで結んでいる。
面をつける前に頭にあの手ぬぐいを巻く瞬間が―――俺は好き。
顔にかかった手ぬぐいを最後に持ち上げてきゅっと後ろで結ぶと、浅田を取り巻く空気が―――
変わる
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切れ長の瞳を一層険しくさせて、きりりとした眉を吊り上げて、
まるで射るように立ち位置を見つめながら、面を被る。
黒い垂には俺たちの大学名“霧生院大学”と“浅田”の白い文字で書かれていた。
「相手大学は大本命の強豪だよ。アーサーをずっとマークしていたやつらだ」
あまりに熱心にその様子を見下ろしていたからか、隣に座った親切な他大学の剣道部員の一人が教えてくれた。
強豪……
ずっとマーク…?
「強いけど、去年はアーサーにこてんぱんにやられてる」
去年…?
ってことは、あいつら!浅田を闇討ちしたってのは。
卑怯だぞ!正々堂々と勝負しろってんだ。
俺は立ち上がった。
「浅田っっ!!」
大声で今ラインの内側に入った浅田を呼ぶと、浅田が顔を上げた。
どころか、いきなり大声出して立ち上がった俺を、観客席の観客たちが注目した。
「だれあれ。すっごい美人」
「やーん、超好み~♪」
と黄色い声と好奇な目にさらされたが、
注目されることなんて大嫌いだが。
―――それ以上に浅田を、応援したい。
「浅田!!がんばれっーーー!!俺は見てるから!」
浅田が小手で包まれた手を掲げた。
『俺の―――俺達の王国を
守ってみせる』
その手がそう物語っているように見えた。
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試合は4分間の三本勝負。
三本のうち二本を取れば、勝ちだ。
『赤、椿大学 フジヤマ タカシ 選手。
白、霧生院大学 浅田 洸希 選手』
名前を呼ばれた浅田と相手選手が試合場に入り、二歩進んで互いに礼をし、三歩進んで蹲踞したあと
審判員の「始め!」の声がかかった。
ドキンドキンと早鐘を打つ心臓を宥めるようにして、心臓の位置に手を置き、きゅっと拳を握って浅田を見下ろす。
両者は立ち上がり、竹刀を構えて威嚇するかのように間合いをとっていた。
最初に仕掛けたのは浅田だった。
怪我をしている足で力強く一歩を踏み込んで、
「ぇええええぃ!!」
大きな声で竹刀を振るも、強豪と言うのはダテじゃない。
力強い竹刀の振りでそれを止めた。
「いゃああぁ!」
「でぇえゃあ!」
「ぃ゛やぁあぁあ!」
両者の声が響き渡り、体育館の中の空気を震わせている。
まるで相手の力量を測るような鍔迫り合いが長く続く。
「分かれ!」
審判の声が掛かり、両旗が上げられ両者が分かれる。
「始めっ!」の声でまたも試合の開始だ。
俺は緊張と不安でドキドキと拳を胸の前で握りながら、その試合を見守った。
「めぇぇええん!」
浅田が仕掛けた。
相手の面に竹刀を振り上げるが、それを相手は寸でのところで避ける。
「どぉおお!」
相手が浅田の右胴を打ち、しかし浅田も寸前に何とか避ける。
緊迫した試合に、俺はごくりと生唾を飲み込んだ。
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一本目の試合は浅田が有効打突(一本)を獲得し、
しかし二本目の試合で、相手に奪い返された。
つまりは引き分けのまま、三本目に突入する。
三本目になると浅田の動きが、今までより鈍くなった。
怪我をしている右足を庇っているのか、どうしても左側のガードが甘くなっている。
敵はそこを突いてきた。
「逆胴打ちか。アーサーどうしたってんだろうな。あいつらしくない動きだな」
と隣に座った大学生が不思議そうに首をかしげている。
鍔迫り合いが続き、「分かれ」の声が掛かると、浅田は息を荒くして肩を揺らしていた。
浅田……疲れているのだろうか。
怪我をした足をかばってるから、通常よりも体力の消耗が激しいんだ。
はらはらと試合を見守る中、とうとう残り10秒を切った。
両者とも最後の大勝負に出たのだろう。
「「めぇぇぇえええん!!」」
二人の声が響いて、
俺は思わず立ち上がった。
浅田―――………!
両者は互いに竹刀を相手の面に打ち付けているように見えたが、
「一本、赤!」
審判の声が響いて、
カランっ…
浅田の手から竹刀が滑り落ちた。
浅田は、負けた
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―――
――
「あー、いい試合だったのになぁ。アーサーが最後の方調子崩してなきゃな」
と大学生たちはぶつぶついいながらも席を立ち上がる。
浅田は怪我してるんだよ。
怪我してるのに、誰にも言わずに隠して
最後まで闘い抜いた。
浅田―――……今、お前はその面の中で
どんな顔をしているのだろう。
悔しい
悲しい
苦しい
一体どんな感情が隠されているのか、知りたいと思うのはいけないことだろうか。
たぶん一番悔しいのは本人だ。
今はそっとしておいてやるのが一番かもしれないけれど、
もし浅田が一人で泣いていたのなら―――
それは
もっと悲しいよ。
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―――「よぉ。お疲れ。最後まで見てたんかよ」
控え室を開けると、やっぱり浅田しかいなくて、道着のままの浅田は床にあぐらを搔きながらいつものように笑った。
手ぬぐいを取り去った髪がぐしゃぐしゃだ。
何だよ―――……いつも通りじゃん……
激しい闘いを闘い抜いたというのに、まるでその痕跡が見えない。
浅田は顔を伏せながら笑顔を作る。
「がちがちにテーピングしたんだけどさ、やっぱ途中から痛くなっちまって。
あとで大人しく医務室行くから」
「ああ……うん…」
よくみるとテーピングした包帯から血の色がにじみ出ていた。
「傷口……開いたんじゃない?」
慌てて屈み込んで見下ろすと、
「さすがに他の部員にバレた。そして怒られた。“何で言ってくれなかった!”って。
鬼主将の面目丸つぶれだ」
と浅田は俯いたまま「ははっ」と乾いた笑い声を上げる。
浅田の頭頂部が見える。手ぬぐいを取り去った黒い髪はぐしゃぐしゃで、無造作に乱れている。
浅田の方が俺よりも5cm以上背が高いから、こいつを見下ろすことなんて滅多にない。
見下ろしているせいか、いつもより浅田が一回り小さく見えた。
「みんなお前のこと心配してたんだよ」
俺も顔を伏せると、
「分かってるけどさぁ」と浅田はまたも軽く声を挙げて笑う。顔を上げようとはしない。
黒い髪の頭頂部が僅かに震えていた。
浅田―――……
「こんなときまで無理するなよ」
俺は浅田の頭にそっと両手を伸ばして、浅田の頭に顎を乗せた。
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「無理して笑わないでよ。
泣いてよ。
俺が受け止めるから
俺しか見てないから
泣いて」
俺が囁くと、浅田は驚いたように僅かに肩を揺らしたけれど、すぐに小手を取り去った骨ばった大きな手で顔を覆った。
ゆっくりと浅田の背中が前に倒れ、屈みこむと
「ごめん……木崎………俺は王失格だ。
あんなに応援して励ましてくれたのに…
俺は……お前に…国を与えてやれなかった
ごめん」
浅田は顔を覆って声を震わせた。
俺の下になってる浅田が、今どんな表情をしているのか分からないけれど、嗚咽を漏らしながら背を丸める浅田の頭を俺は必死に抱きしめていた。
俺を魔法使いマーリンの手下から救ってくれた。
逃げることしか知らなかった俺に、闘うことも教えてくれた。
だけど今は
俺が守りたいんだ。
俺が浅田を―――
「浅田は精一杯やった。
負けもまた、
前進するための一歩。
負けたからと言ってそれは恥じゃない」
浅田の震える頭を抱きしめながらそっと囁くと
浅田は俺の背中に手を回し、力強い手でシャツを掴むと
雄たけびのような声で吠えて、
嗚咽を漏らした。
お前は最後まで逃げなかった。
最後の最後まで諦めなかった。
常に攻めて、攻めて、
攻めて
その結果の敗退を、誰が攻められる。
誰にも攻めることができない。
だけど受け止めることはできる。
俺が受け止める。
お前の悲しみを。
P.33<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
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