Side A(5th)
――――――
―――
その夜は珍しくとても冷え込んだ。
日中は暖かく狩り日和だったが―――このところ温度差が身に染みる……のは年だからだろうか……
白いマントルピースの下に薪をくべると炎が一層大きくなった。
はぁ
深いため息を吐いてカウチに足を投げ出していると、私の足元に沙夜姫様が屈みこみ、捻挫したであろう足首に丁寧に包帯を巻いてくれていた。
「みっともない話ですよ。馬に蹴られて捻挫なんて」
自嘲じみた笑みがこぼれて、突如バカバカしくなった。
「まぁ、そんなことおっしゃらないで。それ以上大事にならなかったのが幸いですわ」
沙夜姫は少しだけ怒ったように目を吊り上げる。
それ以上大事に――――か……
あの場にミスター来栖が居なければ、私はもっと酷い目に遭って居たのかもしれない。
その上オータムナル様にもしものことがあったのなら……
…今はまだ―――“その時”じゃない。
私の計画を確実なものにするためには、まだまだ彼には元気で居てもらわないと困る。
それにしても
ミスター来栖
矢を素手で遮ったあの驚くべき瞬発力と馬に飛び乗った運動能力―――咄嗟の判断と言い
彼は――――
何者なんだろう。
P.368
ミスター来栖は馬に乗ったことがない、と言った。
けれど乗ったことが無い、なんて嘘だ―――手綱さばきもかなりのものだったし、馬の身体のどこにツボが集中しているのかも熟知していた。
だが何故私たちに嘘をつく必要があったのか―――
唇を噛んでいると、
「何をお考えですの……?怖いお顔ですわ」
私の脚に包帯を巻いている手を休めず、沙夜姫が目を伏せて遠慮がちに聞いてきた。
怖い……?私は一体どんな表情を浮かべていたのだろうか。
唐突に鏡を覗きたくなったが
「沙夜姫、貴女のことですよ」
取り繕った笑顔を浮かべると、沙夜姫もにっこり笑顔を浮かべた。
「二人きりのときは沙夜とおよび捨てくださいまし。徹さん」
ああ、そうだったな―――
そうゆう約束だった。
トオルさん、と呼ばれることが何だかくすぐったくもあるが、悪くないか、とも思う。
彼女が―――沙夜姫がそう望んでいるから。
「でも、不謹慎ですけれど、わたくしちょっぴり嬉しいんですのよ」
「嬉しい?」
「ええ、こうやってあなたがリラックスしたお洋服で、わたくしのお部屋に訪ねてくださることが」
そう言われて改めて私は自分がV開きの黒いカットソーと、深い色合いのジーンズだと言ういでたちであることを認識した。
P.369
沙夜姫が言った通り、リラックスしてるからではなく、ただ単にスーツに着替えるのが面倒なだけだった。
それを良いように受け取って勘違いしてくれたわけだ。
包帯を巻き終わった沙夜姫は残った包帯の束を救急箱に仕舞い入れながら
「わたくしのことを考えてくださってるって本当?」
と、珍しく疑うような口調で聞いてきた。
「もちろん」
「いいえ、嘘ですわ」
はっきり言われて私は目をまばたいた。
面倒だな。
これ以上ツッコまれたくなかった私は体を起こし、床に座っている沙夜姫を覗き込みそっと頬を包んだ。
「心外だな。私の考えていることが読めるのですか?あなたは読心術者ですか。
でしたら可愛い術者ですね」
そのまま顔を近づけて口づけをしようとしたが―――
唇と唇が触れ合う瞬間
沙夜姫は私の唇をそっと手のひらで押し戻した。
「どうされたのですか。ご機嫌ななめでいらっしゃるのですか」
私が怪訝そうに聞くと
「いいえ。
あなたが―――
わたしくなんかではなく
コウさんのことをお考えになっているからですわ」
P.370
沙夜姫の指摘に私は目を開いた。
すぐ傍で少しだけ悲しそうな表情を浮かべた沙夜姫が居る。
『そんなことありません』
と言い切ってキスをし、宥めるのはたやすいことだった。
けれど私は―――
そうしなかった。
沙夜姫の頬を包んだ手に、彼女の手が合わさる。両手で私の手を愛おしそうに包むと
沙夜姫は目を伏せた。
その長い睫の端に涙の雫がくっついている。
「素直なお方。わたくしはあなたのことが大好きですわ。
大好きな殿方のこと、分からない女はいませんわ。
けれど――――本当の意味であなたを分かることなんて、ただの一度もなかった。
あなたは優しいけれど、常に冷めていらした。
でもあなたの手のひらはこんなにも暖かい。
皮肉ですこと。
今の今、はじめてわたくしはあなたの心に触れられました。
愛しておられるのでしょう?
コウさんのことを―――」
沙夜姫は目を開けると、涙の溜まった目でじっと私を見据えてきた。
ゆるぎないその黒い瞳は、ただたおやかで、酷く脆く傷つきやすいガラス細工のような女を想像していたが―――
私の目の前に居る女は―――
強い女だった。
P.371
堪えきれず…と言った感じで沙夜姫の目から涙が零れ落ちた。
強い女、と称したのは彼女が涙を流しながらも、決して私から目を逸らさなかったから。
その滴が頬を伝い、私の手のひらに流れ込んできても、私は手を離さなかった。
同じように沙夜姫も私の手を握ったまま。
「知っていましたのよ、わたくし。
皇子の寵も深いあなたに、皇子やわたくしの他にも“恋人”が居ること」
私の手がぴくり、と動いた。
決して動揺しまい、と誓ったはずなのに沙夜姫から繰り出される意外な言葉の連続に
内心の動揺を隠しきれなかった。
沙夜姫は続ける。
「それでも良かった。
わたくしはあなたの数多いる恋人の一人でも、わたくしと会っているときだけはわたくしを見てくれたから。
けれど今日―――あなたはわたくしの後ろにコウさんを見ていた。
分かっていた。
あなたがコウさんを見つめる目は他の恋人たちと違う視線だって。
それが悔しくて、苦しくて……わたくしこの間、コウさんに意地悪をしてしまいましたの」
意地悪―――……?
と言うのがどんなレベルなのか気になったが、マリア様と違っていかにも良識を持ち合わせてるこの人のレベルなんて大したものじゃないだろう。
「このままでは、嫉妬と独占欲でどんどん醜くなっていくのが分かります。
こんなわたくしは自分自身がイヤになりますわ。
ですから
お別れするのです。
こうして二人きりで会うのは最後にいたしましょう」
P.372
出会いがあれば、別れもある―――
当然のことだと思っていたし、別れをきれいに終わらせることもできる、と言う自信はあった。
けれど今私は―――はじめてそれができない自分が居ることを知った。
この女は―――
ただの深層の令嬢なんかじゃなかった。
恋が何たるかを知り、その荒波にもまれながらも、決して流されることなく
自らの道を切り拓いた。
私が知るどんな女よりも―――彼女はたくましく、美しい。
皮肉だな。
私にはじめて欲しいものができ、その存在を知ったとき
私が手にしていたものがいかに素晴らしいものだったか気づいた。
一つ、手に入れると
一つ、何かを失う―――
「もう夜が明けますわ。
さ、お行きになって」
沙夜姫は立ち上がり着物の上に掛けたストールを掛け直すと窓の外を眺めた。
「沙夜……」
「これ以上、わたくしを惨めにしないでくださいまし。
我儘かと思いますが
お行きになって」
夜が明ける―――
それは彼女の名前の一部になっているものも終わると言うことだ。
私は立ち上がった。
さよなら
P.373
最後の一言は彼女に届いたのかどうか分からない。
振り返ることはなかった。
彼女の嗚咽の声を背中で受け止め、だが受け入れることはせず私は扉を閉めた。
――――扉を閉めたところで気づいた。
マリア様が口を両手で覆って、顔色を悪くして突っ立ていたことに。
「マリア様―――……どうしてこちらに……」
まさか今の話を聞かれて―――………?
「あ……あの!わたくし……」
マリア様は震える声で一言二言発し、やがてくるりと踵を返した。
「マリア様!……っつ!」
私はすぐさま追いかけたが、怪我をした脚に激痛を覚えて思わず歩みを止め壁に手をついた。
足を引きずりながら彼女の後を追いかけると、廊下を曲がったところでマリア様のお姿は
消えていた。
マリア様――――……
P.374<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6