Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)

 

黒猫とお別れ

 

 

 

 

 

彼らには

 

 

輝かしい未来がたくさん待ってる―――

 

 

私がそれを奪っちゃいけない。

 

 

なんて大人ぶったけど、ホントは私が臆病なだけ。

 

 

 

 

 


P.33


 

――――

 

 

うだうだ悩んでるのは性に合わない。

 

 

大体私の脳は医学以外のことに悩めるほど器用じゃないのだ。

 

 

おまけにバイオハザードウィルスに侵されてるから、判断が鈍ったけれど

 

 

最初からちゃんと聞けば良かったんじゃない。

 

 

 

 

 

 

黒猫が何と言おうと、それを信じる。

 

 

 

 

 

 

その気持ちが大事だよ。

 

 

そうと決めたらあとは早かった。

 

 

て言うか勢いがないとできない。

 

 

私は講義を終えたあと研究も放って黒猫のマンションに向かった。

 

 

ガタンゴトン…

 

 

定期的な電車の揺れの中、黒猫に会ったら何から話そう…とずっと考えてた。

 

 

何から切り出そうか考えていると、

 

 

扉の付近で見知った女子高生が立っていた。

 

 

 

 

 

カリンちゃん―――……

 

 

 

 

 

制服姿のカリンちゃん。今日は黒猫もトラネコくんも一緒じゃなく一人。

 

 

二人の騎士(?)が居ない今日も、相変わらずふわふわキラキラしてて可愛い。

 

 

同じ電車に乗り合わせた黒猫とは違う高校生の男の子たちがカリンちゃんの方をちらちら気にしている。

 

 

でもカリンちゃんはその視線に気付くことなく目的の駅に着くと、ふわふわの髪の先を揺らして駅に降り立った。

 

 

近づいたわけじゃないのに、香りなんて感じてないのに、髪の先からいい香りが漂ってきそうな…髪の先まで完璧なお姫さまだ。

 

 

なんて思ってる場合じゃないって。

 

 

私も行かなきゃ。

 

 

何となく声を掛けそびれて、私はカリンちゃんとちょっと距離を開けながら歩く。

 

 

 

 

 

当然だけど、目的地の方向は一緒。

 

 

だって黒猫のマンションは、カリンちゃんのお部屋だってあるわけだし。

 

 

目的の方向が一緒だから、当然のように後ろから歩いていくと

 

 

何となく人通りの少ない道に出た。

 

 

 

P.34

 

 

 

こっちが近道で私もよく利用するんだけど。

 

 

二人分の足音がリズム良く道路に響いて、

 

 

さすがにそれが五分以上続くと気味悪いのか、カリンちゃんが後ろを気にしたように鞄をぎゅっと抱えて小走りになる。

 

 

ちょ、ちょっと待って…

 

 

私、不審者に思われてる!?

 

 

いや、違っ!

 

 

 

そう言いたくて慌てて追いかけると、カリンちゃんも足を速め

 

 

私だってそんなに足が速いほうじゃないけど、カリンちゃんは喘息だって持ってるし、彼女がちょっと走ったところで息を切らしてスピードが落ちた。

 

 

や…やっと追いついた。

 

 

「か、カリン…」

 

 

言いかけて手を伸ばそうとすると、

 

 

「キャーーー!!」

 

 

カリンちゃんは悲鳴をあげてバッグを振り回す。

 

 

そのスクールバッグの角が思い切り顎にぶつかり、

 

 

結構な威力だな!

 

 

 

ドタっ

 

 

私は派手な音を立てて、みっともなく後ろにひっくり返った。

 

 

 

 

青い空を見上げながら

 

 

 

はじめて知ったよ。

 

 

スクールバッグは立派な凶器だってことを。

 

 

これじゃ痴漢対策にもなるよね。

 

 

 

なんて思ってる場合じゃないって。

 

 

 

 

顎が痛いし、倒れたふしに打った背中やお尻もイタイ…

 

 

やっつけられる痴漢が私、って恥ずかしすぎるよ。

 

 

痛みに涙が滲んで視界がぼんやりと歪み、その端にカリンちゃんが心配そうに覗き込んではっとなった。

 

 

 

 

 

 

「あ、倭人ちゃんの……!」

 

 

 

 

 

 

そうです、私は痴漢でも変質者でもありません。

 

 

 

 

 

 

 

P.35

 

 

 

「本当にすみません!」

 

 

カリンちゃんは何度も謝りながら、

 

 

私はよろけながらも黒猫のマンションへ向かう。

 

 

「いいの…私も気づいたときに声掛ければ良かったんだけど…」

 

 

かっこ悪過ぎるよ。

 

 

女子高生のスクールバッグ攻撃にやられてよれよれの女子大生って。

 

 

それでもカリンちゃんは本当に心配してくれてるのか、私のバッグを持ってくれて、さらには腕を支えてくれた。

 

 

カリンちゃんだって折れそうなほど細い腕してるのに。

 

 

 

 

カリンちゃんは―――…ロシアン葵ちゃんと違って、すごく凄く優しい。

 

 

 

 

見た目もふわふわ美少女で、今日も凝った編みこみのハーフアップにしていてそれも凄く似合ってるし。

 

 

お花畑の妖精さんか、とツッコミたくなるぐらいだ。

 

 

「か、可愛い髪形だね。自分で結ってるの?」

 

 

二人きりてのははじめてだし、カリンちゃんはロシアン葵ちゃんのように人懐っこいわけではない。変な沈黙に耐えかねて私が話題を振ると

 

 

「はい。あ、でも今日は時間があんまり無くてそれほど…」

 

 

またも話題が途切れて、

 

 

「そぉ?凄く可愛いよ」

 

 

私は慌てて答えた。

 

 

私は髪のセットって言ったって櫛で梳かす程度だし、アレンジっても後ろで纏め上げるだけ。

 

 

器用なんだな、カリンちゃん。

 

 

そう言えばトラネコくんのシマ模様を作ったのも最初はカリンちゃんだっけね。

 

 

“可愛い”と単語にカリンちゃんは白い頬にピンク色を浮かべながらもぎこちなく笑った。

 

 

そんなんで、何となく和みつつあるとき黒猫のマンションに何とか到着。

 

 

……長かった…

 

 

エレベーターホールでカリンちゃんと一緒にエレベーターを待っていると、

 

 

 

 

「あの…倭人ちゃんのおうちに行くんですか…?」

 

 

 

 

 

カリンちゃんがうつむいたまま聞いてきた。

 

 

 

 

 

 

P.36

 

 

「え―――……うん」

 

 

「今日はお勉強の日ですか?」

 

 

またも聞かれて、私はぎこちなく首を横に振った。

 

 

「ううん、今日はちょっと…私用で」

 

 

 

倭人を好きなカリンちゃんの前ではっきりと「会いにきた」とは言えない私。

 

 

ロシアン葵ちゃんと違って、きっと本気で泣いちゃうかもしれないし。

 

 

傷つけたくなくて、でもそれと同時に…ロシアン葵ちゃんのときのようなあからさまな挑発を受けて傷つきたくないのも事実。

 

 

私は……とことん臆病者だ。

 

 

 

 

「最近、倭人ちゃんすごく楽しそうなんです…

 

 

文化祭に女の人連れてきたのもはじめてだし」

 

 

私は顔をあげてカリンちゃんの寂しそうな悲しそうな……一言では言い表せない切ない横顔を見て思わず俯いた。

 

 

傷つけたくない―――…って思ったのに、それだけはどうしても無理そうだ。

 

 

 

 

「あたし…倭人ちゃんが女の人と手を繋いでるのはじめて見て、

 

 

あんなに優しそうに笑いかける倭人ちゃんはじめて見て―――

 

 

 

倭人ちゃんがあたしの知らない倭人ちゃんになっちゃう、って思っちゃったんです」

 

 

 

 

「そんな……カリンちゃんは倭人の幼馴染だし、逆に言うと私の知らない倭人の部分を知ってることだってあるし…」

 

 

何とか言葉を探して当たり障りのない返事を返すと

 

 

 

 

 

 

「幼馴染なんて言わないでください!」

 

 

 

 

 

 

 

カリンちゃんが突如声を荒げた。

 

 

 

 

 

 

P.37

 

 

ビクッ

 

 

カリンちゃんがこんな風に怒鳴ってるのをはじめて見て、私は目を開いて肩をびくつかせた。

 

 

あんまり怒ったことがないのか、興奮してカリンちゃんの肩も激しく上下している。

 

 

さっきとは違う種類の赤い色が頬を染めて、カリンちゃんは私から顔を逸らす。

 

 

「あ、あんまり興奮しないで…

 

 

ごめんね、私気に障ったこと言ったら謝るわ…」

 

 

「謝らないでください!

 

 

そうやって大人ぶって、上から見下ろして!」

 

 

「そんなつもりじゃないよ…」

 

 

私はカリンちゃんの前で一度だって大人ぶったつもりはないし、見下ろしたつもりもない。

 

 

「ホントは…分かってるんです。

 

 

あたしは朝都さんみたいな大人にはなれない。いつまでも倭人ちゃんの後ろをついて回ることしかできないお荷物だって。

 

 

いつまでもあたしは倭人ちゃんの“妹”で、

 

 

 

いっつも迷惑掛けて」

 

 

 

「ちょ、ちょっと待って。私はカリンちゃんが思う大人じゃないし、

 

 

倭人だって迷惑なんて思ってないよ。

 

 

お荷物だなんて…

 

 

 

とりあえず落ち着こう…ね?」

 

 

 

カリンちゃんの肩が激しく上下して、私は彼女の両肩に手を回すと背中をそっと撫でた。

 

 

カリンちゃんの喉がぜいぜいいって、ひどく呼吸が苦しそうだ。

 

 

喘息が出始めている。

 

 

カリンちゃんは切れ切れに呼吸を繰り返しながら胸を押さえると

 

 

 

 

「……取らないで…

 

 

 

 

あたしから倭人ちゃんをとらないで…

 

 

 

 

 

 

お願いします」

 

 

 

 

 

 

 

とうとう大きな目から涙をこぼし、床にうずくまった。

 

 

 

 

 

 

P.38

 

 

 

―――

 

 

「果凛!」

 

 

喘息のせいで激しく咳き込んでいたカリンちゃんはバッグから吸入器を取り出し、薬を吸引したものの、発作がひどいのか歩くこともままならなかった。

 

 

私は慌てて電話で倭人を呼び出し、

 

 

その数秒後にカリンちゃんママと思われるきれいな女の人と、倭人が二人でエレベーターを降りてきた。

 

 

「大丈夫か、果凛」

 

 

倭人がカリンちゃんの背中を撫でる。

 

 

「果凛!大丈夫!」

 

 

カリンちゃんママも心配そうにしてカリンちゃんの額を撫で、汗で張り付いた前髪を掻き揚げ、ぎゅっと彼女を抱きしめた。

 

 

「……ごめんなさい、私のせいなの…」

 

 

おろおろと倭人の方を見ると

 

 

カリンちゃんの元にしゃがんだ黒猫は眉を下げて私を見上げてきたけれど、それに対しては何も言わず

 

 

「果凛、立てるか?」

 

 

黒猫はカリンちゃんを覗き込み聞くと、カリンちゃんは青ざめた顔のまま顔をゆるゆると横に振った。

 

 

 

 

 

「じゃぁちょっとつかまってろ」

 

 

 

 

 

倭人はカリンちゃんを軽々抱き上げてお姫さまだっこ。

 

 

 

 

「ごめん朝都。迷惑かけたみたいで。

 

 

果凛を部屋に運ぶまでここで待ってて」

 

 

 

 

 

そう言われて、今度は私が首を横に振る番。

 

 

 

 

「迷惑だなんて言っちゃだめだよ。

 

 

カリンちゃんも好きでそうなったわけじゃないし。

 

 

 

 

私のことは気にしないで。

 

 

 

カリンちゃんお大事にね」

 

 

 

 

ぎこちなく手を上げて私はマンションを飛び出た。

 

 

「朝……!」

 

 

黒猫が私を呼びかけていたけれど、それにも答えられず私は必死に

 

 

走った。

 

 

ああ、私逃げてばかり。

 

 

ロシアン葵ちゃんのときもそう。

 

 

あのときは何が何だか分からず黒猫に真意を聞くのが怖くて逃げ出しちゃったけど…

 

 

今は―――

 

 

 

 

 

お姫さま抱っこをする倭人。

 

 

か弱いお姫さまを守る勇敢な騎士に思えて

 

 

 

 

 

それがなんだか一番しっくりくる光景だと

 

 

 

 

現実を思い知らされた。

 

 

 

 

 

 

 

“あたしから倭人ちゃんを取らないで”

 

 

 

 

 

 

 

あの言葉が

 

 

 

まるでナイフのように心に突き刺さり、心が―――痛い。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.39

 

 

 

――――

 

――

 

 

アパートに一人帰り着くと、私は部屋の明かりを灯すことなくベッドに倒れこんだ。

 

 

体が重い。

 

 

背中や腰が…悲鳴をあげたようにキシキシなってる気がしたけど、これはきっとさっきアスファルトにぶつけたせい。

 

 

投げ出したバッグの中でケータイが着信を知らせる音を鳴らしたけど、

 

 

何だか取り出すのも億劫で私はバッグを放置したまま、クッションに顔を埋めた。

 

 

それでもしつこく着信は鳴り続ける。

 

 

何度目かで根負けしてバッグを引き寄せ、ケータイを開くと

 

 

 

 

 

着信:黒猫倭人

 

 

 

 

 

になっていた。

 

 

ドキリ、と心臓が大きな音を立ててすぐにキュっと縮まった。

 

 

 

 

 

 

言わなきゃ―――……

 

 

ちゃんと言わなきゃ。

 

 

 

 

“あたしから倭人ちゃんをとらないで”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カリンちゃん……今までごめんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.40

 

 

 

『ごめん朝都、果凛落ち着いて今は寝てるよ』

 

 

黒猫の言葉に私はほっとため息。

 

 

「そっか、良かった…」

 

 

『果凛と何があったの?』

 

 

そう聞かれて、私は言葉を出せずに俯いた。

 

 

 

 

 

“あたしから倭人ちゃんを取らないで”

 

 

 

 

 

あの言葉がまだ耳の奥でエコーしてる。

 

 

まるで言霊のように私を縛り、心臓を激しく揺さぶる。

 

 

何も言い出さない私に黒猫も諦めたのか、電話の向こうで小さく吐息をつき

 

 

『何があったのか知らないけど、果凛は喘息だから発作も良くあることだし気にしないで』

 

 

そう言われたけど

 

 

 

 

気にするよ。

 

 

 

 

少なくとも私が居なければ、それだけカリンちゃんの心労も減るってわけだし。

 

 

『俺に話があったんだろ?

 

 

だからわざわざマンションまで来てたってことだろ?』

 

 

そう聞かれて

 

 

 

 

 

言わなきゃ―――

 

 

 

 

私は痛みで締め付けられる心臓の辺りできゅっと手を握った。

 

 

 

 

 

 

 

「うん、私たちもう……

 

 

 

 

 

 

 

 

お別れしよう―――

 

 

 

 

 

 

って」

 

 

 

 

 

 

 

声が震える。黒猫が何て反応するのか怖い。

 

 

だけど、意思を貫かなきゃならない。

 

 

 

 

 

だって彼らには

 

 

 

 

 

これから輝かしい未来がたくさん待ってる―――

 

 

 

私がそれを奪っちゃいけないの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『は………?何で―――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.41

 

黒猫の声は驚くほど低く、冷たく聞こえた。

 

 

理由を求められている、と分かったけど私の口から何かを説明する前に

 

 

『ちょっと待って。何でだよ…』

 

 

黒猫にもう一度聞かれて私は俯いた。

 

 

今度の声はさっきより上ずっていて、テンポ遅れできた驚きを滲ませていた。

 

 

それでも黙っていると、

 

 

 

 

 

『何でだよ』

 

 

 

 

 

今度ははっきりと低く怒りの感情が伝わってきて、私は唇を噛んだ。

 

 

「あ、あんたが……」

 

 

声が震える。

 

 

涙を必死にこらえて喉の奥で何度も何度も飲み込む。

 

 

『俺が何だよ』

 

 

不機嫌をはっきりと苛立ちに変えて黒猫がかぶせるように聞いてきた。

 

 

「あんたがカリンちゃんについててあげなきゃ、誰が彼女を支えてあげられるのよ」

 

 

『は?果凛?何であいつが出てくんだよ』

 

 

「カリンちゃん、あの子は不安なんだよ。

 

 

私はあんたが居なくても平気だけど、カリンちゃんにはあんたたちが必要なの」

 

 

 

 

 

 

『何だよ、それ。

 

 

本気で言ってンの?』

 

 

 

 

 

 

またも低く聞かれて、私は今度こそ目を伏せた拍子に大粒の涙がぽつり、と落ちた。

 

 

 

 

 

 

「本気―――……だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

『じゃぁ朝都は、果凛のために俺と別れるって言うのかよ。

 

 

 

 

 

ふざけんな』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.42

 

 

涙で濡れた顔を手のひらでぬぐって、こみ上げる嗚咽を堪えていると

 

 

 

 

 

 

『ふざけんじゃねぇ!!』

 

 

 

 

 

 

黒猫の怒鳴り声がまるで耳を劈く大きさで聞こえてきて、私は思わずケータイを少しだけ耳から離した。

 

 

声の大きさだろうか、それとも黒猫の怒りがケータイを振動させているのかビリビリと耳が痛い。

 

 

黒猫に怒鳴られたのははじめてだ。

 

 

ちっちゃな喧嘩はあったけれど、それでも一方的に拗ねてるだけの可愛い私の黒猫。

 

 

一度だって威嚇するように牙を向けられたことはなかったのに

 

 

 

本来の野生身を感じる迫力だった。

 

 

浩一と喧嘩したときだって全然怖くなかったのに

 

 

 

またも私の知らない黒猫の“男”の部分を見せられて、

 

 

 

悲しさとは違う怖さを感じて私の目に涙が溢れる。

 

 

堪え切れなくて小さく嗚咽を漏らすと

 

 

『…ごめん、言い過ぎた。

 

 

ねぇ、ちゃんと話そうよ。一方的に言われてもやっぱり俺納得いかないし。

 

 

今からそっち行くから』

 

 

黒猫は怒鳴って冷静さを取り戻したのか幾分か声を穏やかにさせて聞いてきたけれど

 

 

 

 

 

「来ないで。

 

 

何を話しても同じだよ」

 

 

 

 

溢れる涙を手で押さえながら私は精一杯の声で答えた。

 

 

「もうずっと前から考えてたことなの。

 

 

やっぱ無理だよ。歳の差だってあるし」

 

 

『そんなん関係ねぇよ』

 

 

「関係なくない!」

 

 

今度は私の方が怒鳴り声を上げた。もう嗚咽を堪えることもできない。

 

 

 

 

「何で簡単に言うのよ!

 

 

私はロシアン葵ちゃんのことだってずっとずっと頭から離れない!」

 

 

 

 

泣き声が混じった声で叫ぶと、倭人が驚いたように息を呑む気配がした。

 

 

『何で葵が出てくんだよ、あいつと何かあった?てかこないだドーナツ屋であいつが言ったこと気にしてるの?

 

 

相談してくれりゃ良かったじゃん』

 

 

 

 

「相談できるわけないじゃない!

 

 

だってあんた―――葵ちゃんと会ってたんでしょう?」

 

 

 

 

ああ…最悪のタイミングで聞いてしまった。

 

 

こんな風に感情的になって聞いたってこじれるだけだと分かってたのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.43

 

浩一は以前、私が感情的になることなんてあるのか、と疑問に思ってたらしいけど

 

 

私だってある。

 

 

悲しいこと、寂しいこと

 

 

 

 

 

 

泣きたくなるぐらい苦しいことだって

 

 

 

 

 

あるんだ。

 

 

 

 

『会ったっていつ?』

 

 

 

黒猫が虚をつかれたように幾分か声を上ずらせて聞いてきた。

 

 

図星だったからとぼけてるのだろうか。

 

 

それとも本当に知らないのだろうか。

 

 

どちらか分からない。

 

 

冷静に考えれば絶対に分かるはずなのに、でもその冷静な部分を私の涙が流していったせい。

 

 

それとも言い知れない怒りで蒸発してしまったのだろうか。

 

 

とにかく、黒猫に真意を聞いてからと言うステップを踏めずに私は思っていたことを吐き出した。

 

 

「昨日マンションの下でロシアン葵ちゃんと会ったの。

 

 

ご丁寧にも“倭人はお昼寝中”って教えてくれた」

 

 

『昨日…?てか俺、葵と会ってねぇし』

 

 

「じゃぁ何で葵ちゃんは倭人がお昼寝してたこと知ってたのよ」

 

 

『知らねぇよ、あいつとはそこそこ長く付き合ったし、俺の生活パターンを覚えてただけじゃないの?

 

 

 

 

てかそんなことあったのなら聞いてよ』

 

 

 

黒猫の声にまたも苛立ちが戻り、半分呆れの色が浮かんでる。

 

 

 

 

 

聞けないよ―――

 

 

 

 

だってあれこれ聞いたらウザがられるかもしれないし。

 

 

“年上の彼女、面倒くさい”とか思われるかもしれないし。

 

 

それでも勇気出して今日はマンションに行ったつもりなんだけどな…

 

 

カリンちゃんの予期せぬハプニングに、私の勇気がくじけた。

 

 

 

 

 

 

P.44

 

それは黒猫からしてみればホントにちっちゃな勇気かもしれないけど

 

 

私にとっては大きなことで。

 

 

元々不安だったものがさらに大きく膨れ上がり、さらに

 

 

 

“倭人ちゃんを取らないで”

 

 

 

なんて言われたら、もう立ってるだけでも足元から崩れ落ちそうだ。

 

 

今後、若い彼女たちの存在に怯えながら黒猫と一緒に過ごすのは

 

 

 

 

私には無理だよ。

 

 

 

 

私…いつからこんなに弱くなったんだろう。

 

 

たとえ彼氏の周りに魅力的な女性がいても気にならなかったのに、いえ…そりゃ少しは気にしたかもしれないけど

 

 

でもこんな風に苦しくなったり悲しくなったりすることはなかった。

 

 

倭人に

 

 

「守ってほしい」

 

 

とは言わない。

 

 

 

 

 

 

でも彼の手は可愛くて優しいお姫さま、カリンちゃんを守るために存在してるの。

 

 

あんな風に抱っこされてるカリンちゃん、私よりずっとずっと倭人の傍に居るのが似合う子。

 

 

 

 

「もう疲れた」

 

 

 

 

最後の言葉を締めくくるには最適な言葉だったと思う。

 

 

そう

 

 

疲れてたんだ。

 

 

 

 

 

『葵のことは分かったけど、疲れたなんて言うなよ。

 

 

二人で乗り越えていこうよ。それが恋人同士ってもんじゃないの?』

 

 

 

最後の最後まで倭人は優しい。

 

 

その言葉が嬉しいよ。

 

 

 

でも

 

 

 

決めたことなの。

 

 

「家庭教室の仕事の契約がまだ残ってるけど、明日にでもお父様に事情を話して辞めさせてもらうつもり。

 

 

 

無責任でごめん」

 

 

 

一方的に言って、私は通話を切った。

 

 

これ以上は無理だ。

 

 

 

 

 

P.45

 

 

 

『ちょっ…!朝…』

 

 

 

切る間際まで黒猫が何かを問いかけてきたけれど私は強引に切り、ケータイの電源も切った。

 

 

黒猫とおそろのマウスのストラップが揺れて、バイオハザードマークも一緒に揺れた。

 

 

もうこれで…

 

 

あの正体不明なバイオハザードウィルスに悩まされることもない。

 

 

これで

 

 

 

 

 

終わったんだ。

 

 

 

 

電話一つで終わらせることができるなんて、あまりにもあっけない。

 

 

私はケータイをバッグにしまい入れると、ベッドに倒れこみ黒猫がくれたクマのぬいぐるみを抱き寄せた。

 

 

 

 

終わった…

 

 

 

終わりたくなかった。

 

 

 

 

ずっとずっと続いていくものだと思ってた。

 

 

昨日までは。

 

 

 

私はクマのぬいるぐみを抱きしめて

 

 

 

 

 

「…うっ…ヒック……」

 

 

 

 

嗚咽を漏らして

 

 

 

思い切り泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

P.46

 

 

 

これで良かったんだ。

 

 

そう思うしかない。

 

 

じゃないと、いつまでも引きずりそうだから。

 

 

後悔しちゃうから。

 

 

 

だけど

 

 

 

この日の別れ話を後悔しない日が来ることは

 

 

 

きっと

 

 

 

ない。

 

 

 

 

 

――――

 

 

次の日、一睡もできずにベッドに寝転んでいたけれど

 

 

寝不足か…それとも昨日泣き過ぎたからか、頭が重くて痛かった。

 

 

体もだるくて重いし力がまるで入らない。

 

 

骨の節々も痛いし、それよりも

 

 

 

 

心が

 

 

 

 

痛い。

 

 

 

 

 

その日私は、はじめて

 

 

 

大学を休んだ。

 

 

 

 

 

 

P.47

 

なんてこと無い。

 

 

寝不足からだと思っていた頭痛も、体のだるさも、昨日打ったせいだと思い込んでた腰や背中も

 

 

風邪からだった。

 

 

午後から急激に体が熱くなってきて、何となく体温計で熱を計ると

 

 

38.3℃

 

 

………とことんかっこつかない私。

 

 

何だ…風邪か。

 

 

そりゃ人間誰だって風邪ぐらい引くっつうの。

 

 

私は失恋ごときで頭が痛くなったり体がだるくなるような可愛い神経の持ち主ではなかったことを今更ながら思い出した。

 

 

カリンちゃんなら倒れて、そのまま入院ものだな。

 

 

考えて私は頭を振った。

 

 

考えたくないのに、ふと気を緩めるとやっぱり甘い鳴き声を鳴らして私の脳内に入ってくる

 

 

 

黒猫。

 

 

 

黒猫の残した黒い足跡はどこまでもどこまでも続いて、消えることはない。

 

 

 

 

「ごめんね、勝手に別れを切り出して。

 

 

拾ったはずの野良猫を、私の都合でまたも捨てちゃった。

 

 

 

 

 

ごめんね、ふがいない飼い主で」

 

 

 

 

 

つぶやくとまたも涙が目じりにたまり、横になったままの顔から両サイドへ零れ落ちる。

 

 

「頭いた……薬…飲もう」

 

 

そう決意しても、こんなときに限って薬がないし、病院に出かける気力もない。

 

 

仕方ない、二~三日眠って大人しくしてればそのうち良くなるよ。

 

 

そう思って布団をかぶるも、布団の中で一人うずくまっていると

 

 

 

妙に寂しさがこみ上げてきた。

 

 

 

真っ暗の視界の中、またも涙がこみ上げてきてこの状況が良くない、と早々に判断。

 

 

布団からのそのそ起き上がるも、たった数歩で向かえるキッチンまでの移動もしんどい。

 

 

はいずるように床に移動したけれど

 

 

黒猫避けのだいごろーに足のつま先をぶつけて、私は声にならない声をあげてうずくまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.48

 

 

 

「…いったい…、もぉ!」

 

 

と自分が悪いにも関わらずついだいごろーに当たってしまう。

 

 

私は打ったつま先を撫でながらその場に座り込んだ。

 

 

「黒猫、だいごろーを見つけてびっくりしてたな…

 

 

見つけられたこっちもかなり驚いたけど。

 

 

 

ふふっ」

 

 

こうやって部屋のあちこちを眺めると、黒猫との思い出がたくさん溢れてることに気付いた。

 

 

同棲してたわけじゃないのに、いたるところに黒猫の面影を思い出す。

 

 

その思い出はどれも楽しくて、まるで夢のようなものだった。

 

 

夢を見ていた、と思えばいいのか。

 

 

 

 

―――やっぱりそうは思えない。

 

 

私はそんなに器用じゃない。

 

 

 

 

「これだからイヤだったのよ。

 

 

 

自分のテリトリー内にオトコを入れるのは」

 

 

 

 

自嘲じみて笑い声を上げると、私はその場で両足を投げ出した。

 

 

ちょっと手を伸ばしてシンクの上のタバコを引き寄せる。タバコを一本引き抜いて火をつけるも喉がやられてるせいかちっともおいしくないし。

 

 

ぐしゃり…

 

 

握りつぶしたタバコの箱を見るとそれはいつものメーカーではなく

 

 

 

 

 

浩一の愛煙しているセブンスターだった。

 

 

 

 

 

手の中に私が望めば手に入る存在がいる。

 

 

ケータイを手にしてメモリを開いて、たった数秒で、何も聞かずとも飛んできてくれる人はいる。

 

 

 

 

でも

 

 

 

その手に縋ることはただの一度も望んだことがない。

 

 

 

 

バカな私。

 

 

早速、別れたこと後悔してるし。

 

 

 

 

私が望んでるのは

 

 

 

 

 

 

黒猫。

 

 

 

 

 

 

倭人―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

別れたくなかったよぉ。

 

 

 

 

 

 

 

P.49

 

 

 

――――

 

 

 

 

二日目になっても熱が下がることはなかった。体が熱い。だるい。

 

 

骨がきしきしいってる。

 

 

本格的にヤバい…

 

 

せめて薬―――

 

 

そう思ったけれど、誰に頼ればいいんだろう―――

 

 

とりあえず誰かに助けを…

 

 

そんな風に思っていると、昨日捨て忘れたセブンスターの箱が床に転がってるのを見つけて

 

 

なんとなく反射的に指が動いた。

 

 

 

 

 

 

――――……

 

 

 

「ちょっと朝都!あんた大丈夫!?」

 

 

駆けつけてくれたのは涼子で…

 

 

そう、

 

 

私がヘルプコールしたのは、やっぱり涼子だった。

 

 

てか涼子しかいないし。

 

 

「ほらっ薬!あと、ポカリも冷却シートも買ってきたよ」

 

 

涼子は手際よくビニール袋の中身を取り出し、私に薬を飲ませて冷却シートも貼ってくれた。

 

 

ついでに

 

 

「38.9℃!あんたよく動けたね」

 

 

と熱まで測ってくれる。

 

 

涼子……いつもいつも植物のプランター相手に、農学部に移籍したら?とか思ってたけど

 

 

看護学科に移籍するべきね。

 

 

白衣の天使だわ。

 

 

 

私は涼子がお世話してくれてる間に、黒猫とお別れしたことをぽつぽつと喋り聞かせた。

 

 

 

 

 

 

 

P.50

 

 

 

おかゆを用意してくれている涼子の横顔に話しかける。

 

 

「…ごめんね、溝口さんと四人で温泉旅行行こうって決めてたのに、

 

 

ダメになっちゃった」

 

 

と謝ると、器を持った涼子は振り返り

 

 

「そんなこと気にしなくていいよ」と苦笑い。

 

 

黒猫と別れちゃったことを、涼子は何も言わない。

 

 

「ホントにいいの?」とも「別れて正解ね」とも。

 

 

ただ

 

 

「辛かったね」と言って背中を撫でてくれた。

 

 

「涼子…」

 

 

何も聞かずとも飛んできてくれる人。

 

 

 

 

 

涼子がいてくれて良かった。

 

 

 

 

 

 

私は風邪がうつるかも、と言う心配もよそに涼子に思い切り抱きついて

 

 

「ぅわぁああああん!」

 

 

声を挙げて思い切り泣いた。

 

 

ホントは別れたくなかった。

 

 

ホントはずっと一緒にいたかった。

 

 

 

母親のように姉のように、彼の成長を見守り、どんな逆境も二人で乗り越え

 

 

愛し愛され

 

 

あのおひさまと柔軟剤の香りに包まれて

 

 

 

 

 

 

永遠に

 

 

 

 

 

 

ともに生きたかった。

 

 

 

 

 

 

 

P.51

 

声を挙げて泣き続ける私の背中を、涼子はただただ優しく撫で続けてくれた。

 

 

まるで母親のように―――

 

 

何も言わずに撫でさすってくれる。

 

 

その手のひらの心地よさに、またも涙が出て

 

 

私は涼子にすがり付いて思い切り泣いた。

 

 

 

 

――――

 

 

 

どれぐらい泣いただろう。

 

 

泣き疲れていつの間にか寝ちゃったみたいだ。

 

 

ぼんやりと目を開けると、滲んだ天井が視界に入ってきた。

 

 

「頭いった………」

 

 

独り言をもらすと、誰かの手が伸びてきて額にそっと触れた。

 

 

「涼子…?ごめんね、付き合わせちゃって」

 

 

何とか答えると、涼子だと思っていた人物はゆるゆると頭を振って私の額をそっと撫でてくれる。

 

 

あれ……?

 

 

さっきの感触と違うような―――

 

 

それにこの香り…

 

 

 

 

 

 

おひさまと柔軟剤

 

 

 

 

 

 

 

「………倭人……?」

 

 

居るはずのない人物の名前を思わず呼ぶと

 

 

『にゃ~…』

 

 

ネコの小さな鳴き声が聞こえて、

 

 

ふわりっ

 

 

私の頬をふわふわな何かが撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

P.52

 

 

何だ―――……

 

 

また私、夢を見てるのか…

 

 

夢にまで黒猫を見るとか。

 

 

しかも人間の♂じゃなくやっぱりネコだし。

 

 

『にゃ~…』

 

黒ネコ倭人は甘い鳴き声を上げて私の頬にすりすり擦り寄ってくる。

 

 

「ごめんね……ごはんはもうちょっと待って…?」

 

 

 

 

 

 

「飢え死にしたら朝都のせーだからな」

 

 

 

 

 

いつもの生意気な少年……倭人の声が聞こえたけど、

 

 

これは夢だし、黒いネコが喋ってようが何でもアリね。

 

 

「嘘。

 

 

 

朝都のせーじゃないよ。

 

 

 

 

 

また俺に味噌汁作ってよ。今度はちっさい貝がいっぱい入ったやつ」

 

 

 

「ちっさい貝ってしじみのこと?しじみは二日酔いに効くのよ」

 

 

「何でもいーよ、朝都が作ってくれたら」

 

 

黒いネコは切なげに言って私の横にコロンと体を伏せる。

 

 

ふわふわの体毛があったかくて心地良い。

 

 

「ねぇ朝都」

 

 

ネコに言われて「んー?」と私は目を閉じたまま聞いた。

 

 

 

 

 

「果凛のこと心配してくれるのはありがたいんだけど、

 

 

ホントにそう?

 

 

 

 

本当は俺のこと嫌いになったとか……じゃないの?」

 

 

 

 

 

 

 

P.53

 

「嫌いに……?そんなわけないじゃん。

 

 

私は倭人のことが

 

 

 

 

だーいすき

 

 

 

 

なんだから」

 

 

 

私のネコちゃん。

 

 

可愛い可愛い私の

 

 

 

 

 

倭人

 

 

 

 

「ホント?

 

 

俺も朝都のこと

 

 

 

 

だーいすき…だよ。

 

 

 

 

 

だから捨てないでよ、俺のこと」

 

 

 

 

 

捨て――――たくない…

 

 

捨てたくないよ、

 

 

 

倭人

 

 

 

 

――――「倭人……!」

 

 

ガバッ!

 

 

慌てて身を起こすと

 

 

「あ、起きた~??少し顔色良くなったみたいだね」

 

 

ベッドに座った私を覗き込んできたのは

 

 

 

 

涼子だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.54

 

 

「……やっぱ…夢…だった…」

 

 

きゅっと布団の端を握って俯くと

 

 

「夢…?何の夢見てたの?」

 

 

涼子はテーブルに乗せたお鍋の中をかき回ぜて、その中身を器に盛った。

 

 

その中身は

 

 

味噌汁―――…?

 

 

「しじみ汁作ったんだ、あんた好きでしょ?(お酒)飲んだあとに良く飲んでたじゃん?」

 

 

しじみ―――

 

 

「あ…うん」

 

 

私は曖昧に頷いて、涼子から手渡されたお椀を受け取った。

 

 

「食べれる?ちょっとでも食べないと良くならないよ?

 

 

しじみは栄養もあるし」

 

 

私の心情を知ってか知らずか涼子はマイペースに言って自分の分もよそっている。

 

 

まさか…

 

 

だってあれは夢だよ。

 

 

黒猫がここにくるわけないもん。

 

 

それでも少しの希望に縋りたくなる。

 

 

「あの…さっきここに―――」

 

 

「さっき…?」

 

 

涼子はきょとん。

 

 

「…こ、ここに居たのは涼子だけ?」

 

 

探るように聞くと

 

 

「やだぁ、私だけに決まってるじゃない。何、朝都…怖いこと言わないでよ。私幽霊とかダメなの」

 

 

涼子はぞっとしたように顔を青くさせて両腕を抱きしめる。

 

 

やっぱり

 

 

 

 

 

あれは夢だったんだ。

 

 

寝てる間にしじみ汁の匂いを嗅いで、夢と現実が混在してるだけだよ。

 

 

あとは希望とか……

 

 

 

はぁ

 

 

 

黒猫と別れても、風邪を引いても

 

 

 

バイオハザードウィルスが弱まることはなさそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

P.55

 

私はその日一日飲み慣れない薬のせいでほとんど眠って、そのおかげか次の日は熱がひいたし

 

 

頭の痛みも独特の倦怠感もなくなっていた。

 

 

涼子は昨日のうちに帰ったのか、朝の分の薬と簡単な朝食…おにぎりと昨日の残りのしじみ汁をテーブルに置いていってくれたようで

 

 

食事をして薬を飲んで、二日ぶりにシャワーを浴びると幾分かすっきりした。

 

 

動けるまで回復していた私はこの日二日ぶりに大学に向かい

 

 

「朝都ー、風邪だって?めずらし~、学校休むのはじめてじゃない?

 

 

大丈夫??」

 

 

と方々で心配された。

 

 

「涼子のおかげでだいぶ回復した」

 

 

「涼子??上野くんじゃないんだー」

 

 

女の子たちはにやにや笑って茶化してきたけれど、

 

 

浩一には頼めませんよ。私は小さな吐息。

 

 

「違うよー朝都にはあの高校生の可愛い彼氏がいるし」

 

 

そう言われて、ドキリ…心臓が変な音を立てて鳴った。

 

 

「ほら、一回来たでしょ~?茶髪のあのちょっとヤンチャそうな子」

 

 

茶髪…

 

 

ああ、トラネコくんのことか。

 

 

「違うよ、あの子は私にとって弟みたいな子。何故かなつかれてる」

 

 

「じゃー、あの人?朝都の彼氏って。一回来たことあるよね」

 

 

またも別の子に聞かれて、またも心臓がよじれそうになった。

 

 

「ほらぁ、あのいかした髪型のイケメン。大人の人で~♪」

 

 

ああ、ミケネコお父様か…

 

 

てか何気にここ、“関係者以外立ち入り禁止”なのにネコたちが簡単に侵入してくるな。

 

 

「あんたの周り、イケメン率多くない!?今度紹介してよ」

 

 

病み上がりだと言うのに女の子たちのラブアタックにやられて、私は講義も早々に終え

 

 

研究室に逃げてきた。

 

 

 

 

 

 

 

P.56

 

「朝都先輩大丈夫っすか」

 

 

出迎えてくれたのはおなじみ後輩くんで、手にしたビーカーの中は色鮮やかなピンク色をしていた。

 

 

「私の風邪より、その中身を心配したら?

 

 

何なのよそれ、また変な薬作って」

 

 

「これっすか!これは惚れ薬っすよ♪

 

 

遂に完成したんス」

 

 

後輩くんは一人楽しそう。

 

 

惚れ薬ぃ??キミ…そんなの研究してたの。

 

 

てかそんなフザケタ研究許す大学もどうなってんだ。

 

 

「こんちわ~ッス!あれ、朝都さん風邪もういいんですか?」

 

 

出入りしてる製薬会社はやたらとチャラいし。

 

 

「ご心配ありがとうございます、溝口さん。もう大丈夫です」

 

 

「朝都さんが風邪とか。次の日は絶対台風来るかと思ってたけど天気はずれましたね~」

 

 

ついでに言うと、失礼な人。

 

 

溝口さんは後輩くんに笑いかけ、後輩くんもケラケラ笑っている。

 

 

「溝口さん、ちょうど良かった。惚れ薬の成果を見たいんで検体になってくれますか?」

 

 

後輩くんはビーカーを傾けて、溝口さんは思い切り顔をしかめている。

 

 

「あ、俺。もう涼子さんに惚れてるんで無理っす」

 

 

「キミも変な薬ばっかり研究してないで、真面目に研究しなさい?カーネル教授に怒られちゃうわよ」

 

 

一応先輩らしく注意をしてみる。

 

 

なんて事ない日常だ。くだらない会話をしてたら少しの間だけでも黒猫のこと忘れられるよ。

 

 

そう思ってたけれど。

 

 

 

 

「朝都先輩だって変な研究してるじゃないスか。どうです?

 

 

 

 

クロネコ印の白髪防止剤の研究は」

 

 

 

 

 

クロネコ―――………

 

 

 

 

思いがけずその言葉が耳に飛び込んできて、私は思わず俯いた。

 

 

 

 

 

 

 

P.57

 

 

「朝都先輩自分で言ってたじゃないすか。

 

 

彼氏の髪の毛をサンプルでもらったから、研究するって。

 

 

おかげでマウスの毛の色がうっすら灰色に変ってきましたよ。

 

 

朝都先輩が変な薬注射するから」

 

 

事情を知らない後輩くんはぺらぺら喋っていて、

 

 

「あー……うん!そうだね、市川くん(初公開:後輩くんの名前です)今はその話は」

 

 

と溝口さんが慌てて後輩くんの会話をさえぎり、心配そうに振り返る。

 

 

溝口さん……

 

 

涼子から聞いてるのか。まぁ当然っちゃ当然だよね。

 

 

「大丈夫、大丈夫」

 

 

私はへらへら溝口さんに笑いかけ、何も知らない後輩くんだけが「?」マークを浮かべている。

 

 

それでも妙な沈黙をおかしいと思ったのか後輩くんはそれ以上聞かず、

 

 

ラベルを貼っていない小さなペットボトルを私によこしてきた。

 

 

「何か分かんないんですが、これ飲んで元気出してください」

 

 

そう手渡されたのはさっきの惚れ薬と言うのが入っていて。

 

 

「何なの、これって新手のイジメ?」

 

 

私はペットボトルを受け取りながらも後輩くんを睨みつけてやった。

 

 

そんな感じでいつもの研究時間が過ぎて行き、

 

 

いつの間にか辺りはとっぷりと暮れていた。

 

 

「朝都ー、帰る~?」と心配で様子を見に来てくれた涼子の申し出を

 

 

「ごめん、行くとこある」と断り、

 

 

向かった先は

 

 

 

 

ミケネコお父様のバー。

 

 

 

 

 

 

 

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