七回目の満席

 

『空席のソファ』

 

 

 

 

 

 

 

「Place、本日14時より打ち合わせ取材、来社」

 

 

分厚いスケジュール帳を確認して、当時まだ新卒の男の子をアシスタントに持っていた私は

 

 

五人の簡単なプロフィールや顔写真が載った書類の束をめくり、

 

 

「ふーん、このルックスだったら売れそうね」

 

 

彼らの顔を確認した。

 

 

どうやら彼らは歌もダンスもかなりレッスンを積んでいて、この芸能プロの秘蔵っ子みたいだ。

 

 

厳しいと有名の芸能プロの中、寄せ集められた彼ら五人は言わばアイドル界のエリートとも言える。

 

 

そんな彼らが今後売れないと言うことはない。

 

 

今のうちにツバつけとかなきゃ。

 

 

けれど私に歌やダンスなんて関係ないし、興味がない。

 

 

雑誌に載るのは彼らの顔と数点のポーズ。あとはインタビューや新曲のCMの文字だけ。

 

 

「いい?ヘマしないでよ?Placeは駆け出しとは言え、すでに一部に熱狂的なファンが居るのよ。

 

 

これを掴んだら私は昇進」

 

 

「ヘマしたら…?」

 

 

アシスタントは自信無さそうに肩をすくめ

 

 

私は自分のクビを手刀で斬る真似をした。

 

 

「マジすか」

 

 

「マジよ。さすがにいきなりクビにはならないだろうけど、飛ばされるのは間違いなし。

 

 

だからしっかりね」

 

 

「……はい」

 

 

アシスタントはますます自信がなさそうにうな垂れ、

 

 

「しっかりしてよ。何が何でも成功させなきゃ!」

 

 

私がこうまでこの『Place』にこだわるのは彼らの熱狂的なファン……ではもちろん無くて、

 

 

数ヶ月前から私の受け持っている芸能コーナーで起用した新人モデルの男の子たちがあまり受けが良くなかったから。

 

 

 

今の女の子たちは目が肥えている。

 

 

彼女たちは「光る」何かを見つけるのに長けていて、何かがないとそれだけで終わってしまうのだ。

 

 

 

紹介されたモデル事務所から苦情が出たほど。

 

 

「全然売り上げが伸びない」のは雑誌のせいじゃないけれど、それを判断できなかったのは私のミス。

 

 

と言うことで、編集長から再三に渡って

 

 

 

「必ず売れる子を載せろ」なんて無理な注文されて

 

 

しかも

 

 

次、事務所から苦情が出たらお前は異動だ」

 

 

 

なんて脅されたら、私も必死になる。

 

 

てか、こんな理不尽なのアリ!??

 

 

 

 

 

P.9

 

 

でもこんな理不尽なことが社会では普通に起こり得るのだ。

 

 

文句ひとつまともに言えず、私は言われた通りの仕事をこなすしかない。

 

 

用はミスしなければいい話だが、それが難しかったりする。

 

 

 

 

だって相手は対、アイドルさま

 

 

 

なのよ?

 

 

 

 

 

―――打ち合わせ用の広い応接室。

 

 

ソファセットがあって、その長いソファにさっき確認したメンバーが座っていた。

 

 

雑誌の取材、と言うことは慣れているのか特別緊張した様子でもないし、かといって砕けすぎた印象もない。

 

 

いわゆる、典型的な「よいこ」タイプだ。

 

 

ほっ

 

 

とりあえずは第一関門突破。

 

 

「こんにちは『Place』のみなさん。

 

 

わたくしは安藤 環と申します。このたびみなさまのインタビューを受け持たせてもらいます」

 

 

名刺を渡してソファのメンバーを改めて眺め…

 

 

ん??

 

 

私は目を凝らした。

 

 

1、2、3、4……

 

 

 

一人足らない!!?

 

 

成人男性が五人はゆうに腰掛けられるソファに、一つだけぽっかりと開いた空席。

 

 

「あー…すみません。ゼンのヤツがまだ来てないみたいで…

 

 

ケータイにも繋がらないんです」

 

 

リーダーの子が申し訳なさそうに謝って、

 

 

「いえ…!わたくしが確認してまいりますので少々お待ちを!」

 

 

私はアシスタントを残し、一人応接室を飛び出した。

 

 

冗談じゃない!五人揃ってないと意味がないのよ!

 

 

そのまま上階にあるオフィスに移動しようと思ったものの、運悪くエレベーターの点検作業の時間帯だった。

 

 

何でこんなときに!

 

 

なんて運がないの!

 

 

仕方なしに私はエレベーター脇にある階段を駆け上り、オフィスに移動すると彼らに関するファイルを引っつかんでまたも逆戻り。

 

 

「事務所の連絡先…!あった!!」

 

 

ファイルをめくりながらケータイを取り出して事務所に連絡しようとしていたのが間違いだった。

 

 

 

運の悪さは、この日私をさらにどん底へと―――

 

 

 

 

突き落とす。

 

 

 

 

P.10

 

「わ!!」

 

 

階段のステップから足を踏み外して、10cmヒールのパンプスが脱げる。

 

 

「キャァ!!」

 

 

その衝撃でケータイを手から滑り落とし、

 

 

ガシャン!

 

 

派手な音を立てた。

 

 

私自身は何とか手すりにしがみついて落下を防いだものの、ケータイはもうダメだ。

 

 

 

ついで

 

 

 

「痛っ!」

 

 

 

階下で小さな声が上がり、声のした方を見下ろすと

 

 

「おっと」

 

 

転がったパンプスをキャッチしてくれたのは

 

 

 

 

 

若い男―――……

 

 

 

 

 

「良かった。靴無事だよ?」

 

 

男は私のパンプスの踵を掴み笑顔で私を見上げてくる。

 

 

印象的な大きな目が人懐っこく細められ、無邪気に笑うその青年。

 

 

良く透るテノールの声。

 

 

僅かにエコーがかって心地よく響いたのは、階段と言う閉鎖的な空間が生み出した反響か。

 

 

…て、声なんてどうでもいいって。

 

 

「良くない…どっちかっていったらケータイを助けてほしかった」

 

 

いや、良くないことない…

 

 

って日本語変だけど。

 

 

 

 

 

岩本 禅夜―――!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

P.11

 

 

大きな少し釣りあがり気味の黒い瞳。その上には意思の強そうなキリリとした眉。

 

 

整った鼻梁に、思わずキスしたくなるような少し肉感的な唇。

 

 

小造りの顔に、やや大きめのパーツが散らばるその顔は生意気そうであったが惹かれる何かがあった。

 

 

間違いない…

 

 

だって写真で確認したもの。

 

 

私はもう片方のパンプスを脱いで階段を慌てて降りると

 

 

「ちょっと岩本さん!どちらにいらしたんですか。

 

 

インタビュー…」

 

 

言いかけて

 

 

「あ、担当者さん?」

 

 

と、これまた平和でのんびりとした答えが返ってきてイラっときた。

 

 

ちょっとかっこいいと思ったのは違いないけどね、私はミーハーなファンじゃないの。

 

 

おまけにイヤになるほど現実主義者。

 

 

 

 

 

彼には恋しない。

 

 

 

 

絶対に。

 

 

 

 

 

それでも相手は客。私は不機嫌を押し隠し、

 

 

「他のメンバーの方はお待ちですよ…」

 

 

言いかけたが、その唇にそっと人差し指を突きつける岩本 禅夜。

 

 

「しー…」

 

 

「は?」

 

 

隠れんぼでもしてるの?別に君がどこで隠れんぼしようと鬼ごっこしようと私には関係ないけど、今だけはやめてよね。

 

 

そう言う意味の視線で怪訝そうに岩本 禅夜を見上げると

 

 

 

 

 

「おねーさん。

 

 

 

 

逃げ出す方法、教えてくれない?」

 

 

 

 

 

P.12

 

 

意味深に細められた目が三日月型をして、口元に淡い笑み。

 

 

逃げ出す方法―――って…?

 

 

益々意味が分かんない。

 

 

怪訝そうにしていると

 

 

「安藤さーん!」

 

 

階上で誰かが私を呼んだ。

 

 

「ヤベ。見つかった?」

 

 

岩本 禅夜は眉をひそめて片目を細めると、

 

 

ぐいっ!

 

 

何を思ったのか私の体を抱えた。

 

 

 

 

はぁ!!?

 

 

 

 

いわゆるお姫さま抱っこと言う形で私は彼に軽々抱えられ、

 

 

「ちょっ!」

 

 

何かを言う前に、彼は近くにある資料部屋へと身を隠した。

 

 

お姫さま抱っこなんてはじめてされた。

 

 

細そうに見えるのに、その腕は鍛えられた筋肉がきれいについている。

 

 

良くあるじゃない??イケメン盗賊に狙われたお姫さまとか、そんでその盗賊に恋をしちゃうのが定番のパターンだけど

 

 

生憎私はそんな可愛い性格ではない。

 

 

「ちょっと!何なの、あんた!!」

 

 

今まで我慢して丁寧な口調と態度を保ってきたけれど、もう我慢の限界。

 

 

私は彼の腕の中で喚いて

 

 

 

 

 

「何って、逃げ出す方法を教えてくれないなら、

 

 

俺を逃がしてくれないかな、って思って」

 

 

 

 

 

またも分けのわからないことを言われて、私は彼に抱きかかえられたままその整った顔が私の顔にそっと近づいてきた。

 

 

 

 

P.13

 

 

顔ちっさ。

 

 

睫も長いし、肌は女の私よりもきれい。

 

 

香水か何かだろうか凄く爽やかで心地良い香りが鼻腔を優しくくすぐり、唇と唇が触れ合う瞬間…

 

 

ちょっ――――!

 

 

言葉よりも先に

 

 

 

足が出てしまった。

 

 

バンっ!

 

 

私は足の裏で彼の顔を押しのけ、

 

 

「いっってーーー!

 

 

彼は大げさに痛がってみせたものの、私から手を離さず近くにあった低めのラックに私の体をそっと下ろす。

 

 

「マジで痛いし。てか顔はやめてよ。これでも商売道具なんだよ」

 

 

打たれた頬を撫でさすりながら目を僅かに吊り上げ私を睨んでくる岩本 禅夜。

 

 

何なのこいつ。

 

 

「何なのあんた!何様のつもり!」

 

 

って、アイドルさまか。

 

 

「ちょっとモてるからっていい気になってんじゃないわよ!

 

 

逃げ出したいとか分けわからないこと言って、暇つぶしかゲームか何だか知らないけど女をからかってるんじゃないわよ!

 

 

大体ねぇ、女だったら誰でも堕とせるとか思ってるのが間違いよ!

 

 

思い上がりもいいところだわ。

 

 

どうせ印象的なこと言えば、女が釣れるとでも思ってるんでしょ?

 

 

ふざけんな!

 

 

 

こっちは仕事なのよ」

 

 

言いたいことを一気に喚くと、幾分かスッキリした。

 

 

スッキリしたけど…

 

 

ぜぇはぁ……

 

 

私はかっこ悪く息切れ。そもそも誰かに怒鳴るなんてあんまりないことだから。

 

 

影で何を言われていようが、気にしない素振りを見せるのは慣れている。

 

 

「ちょっと…大丈夫?」

 

 

彼が怪訝そうに目を細めて私を覗き込んでくる。

 

 

 

何なのよあんた…

 

 

何なのよ…

 

 

 

 

「私を誰だと思ってるの?

 

 

どーせ社内イチ冷たい女よ?結婚したくない女よ?

 

 

 

影でランキング付けられて、その記録を更新中よ!

 

 

 

『絶対彼氏は三年ぐらい居ないだろう』

 

 

『夜は寂しくコンビニ弁当』

 

 

 

ええ、当たってるわよ!全部、全部ね!!だけど彼氏が居ないのは二年よ!残念ねっ

 

 

はっ!

 

 

こんな女、誰だって口説かないわよ!

 

 

 

 

 

分かってるわよ、私だって。

 

 

 

だからあんたの簡単な口説き文句にも乗りませんよ!」

 

 

 

 

 

ああ、私……もう言ってること滅茶苦茶……

 

 

 

 

P.14

 

 

分かってるわよ……」

 

 

もう一度呟いて、その語尾が震えているのが分かった。

 

 

「ちょっとおねーさん…?」

 

 

岩本 禅夜が私の足元にかがみこみ、俯いた私を覗き込んでくる。

 

 

さっきは噛み付きそうな勢いだったのに、今は困りきった子犬のような目で私を見上げている。

 

 

「わ、私だって……恋愛したいわよ。

 

 

かっこいい男の子にこんなことされたら…嘘だと分かってても一瞬ドキっとしちゃうのよ」

 

 

私は一体何を言い出すんだ……自分で自分が信じられなかったけれど、暴走は止まらない。

 

 

膨れ上がった感情が涙になって目頭を熱くする。

 

 

 

 

 

「おねーさん……

 

 

 

 

安藤 環さん」

 

 

 

 

ふいに名前を呼ばれて、いつの間にか私と同じ目線まで顔を上げていた岩本 禅夜が私の頭を優しくぽんぽん。

 

 

またもドキリとして

 

 

私はその手を慌てて振り払った。

 

 

「何で私の名前―――…」

 

 

「これ」

 

 

岩本 禅夜はいつの間にか私の名刺を手にしていて、

 

 

 

 

「俺が悪かったよ。ごめんね、

 

 

 

 

環」

 

 

 

 

次の瞬間もう呼び捨てとか―――

 

 

可愛い笑顔に全部…

 

 

ゆ、許

 

 

 

 

………せるかーーー!!!

 

 

 

 

 

またも怒りが湧きあがってきて、私は岩本 禅夜から名刺を奪った。

 

 

 

 

P.15

 

 

「お遊びはこれまでよ!

 

 

インタビューに出てくれたら今の件黙っててあげるわ。

 

 

てか出てくれないと困るのよ!」

 

 

急に態度を変えた私に今度は岩本 禅夜が引き腰。顔に苦笑いを浮かべている。

 

 

「働く女??キャリアウーマンての?一生懸命でいいね」

 

 

「違うわよ!そんなんじゃないわ!

 

 

このインタビューが失敗したら私は飛ばされるのよ!」

 

 

「なるほどね。てか必死だね」

 

 

必死―――……

 

 

ブチッ!

 

 

「悪かったわね、必死で!

 

 

どうせ私は仕事が恋人よ!!ちょっと仕事が忙しくて元彼を放置してたら、

 

 

『お前に俺は必要ないだろ』とか言う理由でフラれちゃうし。

 

 

生憎、恋人にするほどの愛情なんて持ち合わせてないですけどね、女一人が生きていくのは大変なのよ!

 

 

必死で悪いわね。

 

 

あんたに結婚する意志が無かったから将来に不安を持ったのよ!悪い??

 

 

誰かが支えてくれなきゃ自分で自分を支えるしかないじゃない」

 

 

最後の方は元彼に対する恨み言だった。別れる際に言えなかった一言。

 

 

何でこんなこと言ったんだろう、私。

 

 

はじめて会った、それも私の悩みなんて一生理解してくれなさそうなアイドルさまを相手に。

 

 

でも

 

 

何故だかこいつの前だと色んな事、吐き出しちゃう。ずっと言えなかったことを―――こんなにもあっさりといとも簡単に……

 

 

岩本 禅夜は私の言葉に否定したりツッこんだりせず、ただ黙って話を聞いてくれていた。

 

 

これじゃ…どっちが客か分かんないじゃない。

 

 

「……ごめん」

 

 

思わず謝ると、岩本 禅夜はうっすら笑ってまたも私の頭をぽんぽん。

 

 

 

 

「がんばってるね」

 

 

 

 

認められたかったわけじゃない。私は私のためにがんばるしか道がないの。

 

 

だけど改めてそう言われると―――張り詰めていた何かが緩む。

 

 

 

 

 

P.16

 

 

 

元彼から―――黙って身を引いたのはあいつに浮気相手が居たから。

 

 

みっともなく縋り付いてあいつを取り戻そうと、かっこ悪いことしたくなかった。

 

 

ああ、またも変なプライドが私を邪魔する。

 

 

そう思ったけれど、プライドを捨ててまで縋りつくほどの男でなかったのは確か。

 

 

男なんて信じられなくて、仕事を言い訳に逃げていたのかも。

 

 

「私はね…

 

 

このまま突っ走って、管理職になってお金貯めて、マンション買って

 

 

女一人でも立派に生きていけること証明してやりたいの」

 

 

「うん」

 

 

私―――何言い出すんだろう…自分でも呆れる。

 

 

仕事ほっぽって、取材相手に人生相談…ていうか完全に愚痴ね。

 

 

けれど

 

 

彼は私のバカげた夢を笑い飛ばしたりはせず、頷いてくれた。

 

 

アイドルさまから見ればこんなのちっぽけな夢かもしれないのに、それでも真剣に聞いてくれた。

 

 

 

「そしていつか元彼に再会したとき言ってやるの。

 

 

『独り身は自由で楽よ~?マンションもあるし、なんといっても気楽だしね』

 

 

って。

 

 

そのときそいつはきっとつまらない女と結婚してつまらない結婚生活を送っているだろうことを想像して」

 

 

言った後になって後悔した。

 

 

 

 

 

 

「私ってイヤな女……」

 

 

 

 

 

こんなんだからまともな恋愛できないんだ。

 

 

自分にも他人にも素直になれない。

 

 

本当は今の仕事が好き。恋もしたい。

 

 

よくばりなの。

 

 

 

 

 

 

 

「本当は寂しいのよ。

 

 

 

さっきのマンション購入の夢は、夢じゃなく目標。

 

 

そうじゃないと現実に生きていけない。

 

だからそう言って逃げてるの。

 

 

本当は

 

 

大恋愛とは言わないまでも好きな人と結婚して、賃貸アパートで細々暮らそうが

 

 

自分を必要としてくれる人と一生一緒に居たい。

 

 

 

 

こんな女が夢みるのはバカげてる?

 

 

 

 

 

でもそれが本当の夢」

 

 

 

 

誰かに必要にされて、

 

 

誰かの特別席に座りたい。

 

 

 

 

 

P.17

 

 

 

「管理職になってお金貯めてマンション買って?

 

 

その現実的な目標もいいけどサ

 

 

もっと楽で幸せな近道…あるじゃん」

 

 

岩本 禅夜が子供のように無邪気に笑って、またも私の頭をぽんぽん。

 

 

「楽なことって……?」

 

 

今度は振り払おうとせずに私は彼の言葉を怪訝そうに聞いた。

 

 

 

 

「誰かに寄りかかればいいんだよ。

 

 

 

環は寂しいって言った。

 

 

 

だったら誰かの手に縋ればいい」

 

 

 

 

ああ、彼のテノールはこんなときまでも心地よく胸に響く。

 

 

声なんて―――必要ない、なんて思ったけれど、私は彼のこの声の魅力を文章に起こせる才能があれば

 

 

どんなことをしてまでも読者に伝えるだろう。

 

 

こんなときまで雑誌のことを考えてる私…そこまで愛情がないと言ったけれど

 

 

結局のところ、やっぱりこの仕事が好きなんだろう。

 

 

それならなお更、彼を逃がすわけにはいかないのだ。

 

 

「ねぇ何で逃げたいとか言ったの?インタビューなんて面倒くさい?」

 

 

今度は私が聞き役になって彼に問いかけると

 

 

 

 

 

「んー……なんか突っ走ることに疲れちゃったって言えばいいかな」

 

 

 

 

「アイドルを辞めたいってこと?」

 

 

私が聞くと

 

 

「まぁ早い話そう。俺の歌やダンスなんてみんな興味ないし。

 

 

大体俺なんてPlaceの中で影薄いし。いなくなっても誰も気にしないっしょ。

 

 

インタビューなんて無意味だよ」

 

 

 

 

 

彼の言葉を聞いてまたも

 

 

ブチっ

 

 

私の中で何かがキレる音がした。

 

 

 

 

だって、

 

 

まるで私の仕事を否定されたみたいだもの。

 

 

あんたには無意味でも、私には意味があることなのよ!

 

 

アイドルの気まぐれな我侭に付き合ってられるほどの暇はないっつうの!

 

 

 

 

 

「しっかりしなさいよ!

 

 

 

 

あんたプロでしょ!!」

 

 

 

 

 

P.18

 

 

「さっき『顔はやめて』って言ったわよね!

 

 

もう答えは決まってるじゃないの。

 

 

自分の顔が商品価値であること知ってるってことはそれなりにプロ意識は持ち合わせてるんでしょ。

 

 

あんたは何だかんだでこの仕事に情熱持ってんのよ!

 

 

お金貰ってステージに立たせてもらってるんだからね、何があったのか知らないけど

 

 

 

 

その分しっかり働きなさい」

 

 

ビシっと彼の眉間に指を刺して言い切ると、彼は大きな黒目を寄せて寄り目。

 

 

何…

 

 

ちょっと可愛いし。

 

 

思わず笑うと

 

 

「ぷっ」

 

 

岩本 禅夜も笑い出した。

 

 

「な、何よ……」

 

 

「ううん、あんた可愛いな。って思って」

 

 

カメラさん、今絶好のシャッターチャンスですよ!

 

 

撮影のカメラマンが居たらそう言っていたに違いない、その笑顔は極上のものだった。

 

 

……って…

 

 

冷静(?)に思ってる場合じゃないわよ。

 

 

「からかってるんじゃないわよ。

 

 

私なんて可愛くないわよ。大体あんた、毎日のように女優やモデルみたいな子と顔を合わせてるくせに」

 

 

ふん、そんな冗談間に受けるほど私はウブじゃないわよ。って意味で腕を組んで鼻息を吐くと

 

 

 

 

 

「最初見たときは『お、美人だ★ラッキ~♪』ぐらいに思ったけど

 

 

環は可愛いよ」

 

 

 

 

 

またも極上の笑顔を向けられて、意味もなくドキリと胸が鳴った。

 

 

 

 

 

 

可愛いなんて言われたのなんてはじめてだし。

 

 

 

 

P.19

 

 

「と、年上の女をからかってるんじゃないわよ!

 

 

私のどこが可愛いのよ!」

 

 

「年上って言ってもそんなに離れてないじゃん?」

 

 

「あんた二十歳でしょ?私は二十二よ」

 

 

短大卒業後この会社にすぐに勤めだして二年。芸能コーナーを任せられるまでに昇りつめるまでには割りと短いキャリアだけど

 

 

でもそれなりに努力もしてきた結果だと思ってる。

 

 

だから「冷たい女」呼ばわりされてるんだけどね。

 

 

「環は可愛いよ。

 

 

でも、このひっつめ髪を解いて……あとブラウスのボタンももう一つ外したら」

 

 

そう言って彼は私の髪を留めていたクリップをそっと外した。

 

 

パサッ

 

 

髪が肩に落ちて、ついで彼は言葉通り私の胸元のボタンを一つ外す。

 

 

「ちょっ!何してるのよ!」

 

 

さすがにぎょっとして慌てて彼の手を遮ろうとしたけれど、彼の力強い手はそれを阻んだ。

 

 

大きな目をわずかに伏せて、長いまつげが頬に影を落とす。

 

 

 

「黙っててよ」

 

 

真剣に言われて、私はまたもドキリとして大人しくされるがまま。

 

 

だけどボタンを外す以外のことは何もするつもりがないのだろうか、彼はボタンを一つだけ外すと手を離し、

 

 

彼の首に巻きつけてあった白と黒モノトーンの幾何学模様柄のストールを取り外した。

 

 

 

皺加工がしてあるそのストールを私のスーツのジャケットの上からそっと掛けて

 

 

「ほら、この方がいいよ」

 

 

彼は満足そうに微笑んだ。

 

 

スカーフのようにぶら下がったストールは私の黒いスーツに華やかさを散らした。

 

 

「俺より環の方が似合ってるし、それあげる」

 

 

そう言われて、私は慌てた。

 

 

「いや、それはさすがに!てか私が持ってたら変な風に疑われるじゃない」

 

 

 

 

 

「疑われてもいいよ?俺は。

 

 

 

環が迷惑だって言うならそれはちょっと悲しいけど。

 

 

 

それにそれ、今日買ったばかりのヤツだから、誰も知らないし」

 

 

 

 

P.20

 

 

「インタビューとかマジでヤだな。

 

 

俺、歌以外の仕事とか興味ないし、苦痛でしかないんだよね。

 

 

でもさー、選り好みしてる立場じゃないって言うかねー…

 

 

何かジレンマ?みたいな?

 

 

 

そうゆうのすっげぇストレスで、そんなこと考えながら、気晴らしに買い物して見つけたのがそれ」

 

 

 

ストールの端をちょっと引っ張って岩本 禅夜は苦笑い。

 

 

 

ついでにブラウスの合わせ目に指を入れてさりげなく中を覗いてくる。

 

 

「お♪薄いブル~☆俺、好きよ?」

 

 

「何勝手に見てんのよ!」

 

 

怒って禅夜の手を払うと、

 

 

 

「インタビュー受けるよ。

 

 

環が飛ばされるのはイヤだし」

 

 

彼は背筋を正すと、私の足にそっと脱げたパンプスを履かせた。

 

 

まるでシンデレラが王子さまに拾ってもらった靴のように。

 

 

何の変哲もない黒いパンプスが急にガラスの靴のようにキラキラ輝いているように見えた。

 

 

何のマジック??

 

 

アイドルさま効果か?

 

 

 

 

 

「俺は、がんばってるあんたが好き。

 

 

がむしゃらで向こう見ずで、プロ意識が強くて―――

 

 

 

俺にはない強さを持ってる環が」

 

 

 

 

“好き”と言うところにドキリと反応してしまう。

 

 

聞き慣れない言葉だからだろうか。

 

 

でも相手はアイドルさまだし、ファンサービスも心得ているんだろう。

 

 

そう考えなきゃ、何だか

 

 

 

戻れないところまで堕ちてしまいそうになる。

 

 

 

 

 

P.21

 

 

――――

 

 

「安藤さん!良かった!もうどこまで行ってたんですか!ケータイも繋がらないし」

 

 

一人、四人のメンバーの居る応接室に取り残されていたアシスタントが私を見つけると泣きそうな勢いで勢い込んできた。

 

 

 

ごめんなさい。ケータイは壊れちゃいました。

 

 

でも

 

 

「連れてきたよ、岩本さん」

 

 

私は背後をのんびり歩いている禅夜を目配せ。

 

 

「さすが安藤さん!」

 

 

アシスタントはさっきまでの不安顔から急に顔を輝かせた。

 

 

何なのよ、さっきまで怒ってたくせに。

 

 

「あれ…?でも安藤さんさっきと雰囲気変わった…?」

 

 

アシスタントくんにそう指摘されて、ドキリ。

 

 

「あ、うん!ちょっとトラブルでね」

 

 

何とか言い訳をして視線を泳がせていると、視界の端で禅夜が悪戯っ子のようにべーっと舌を出している。

 

 

………こいつ!

 

 

インタビュー無事に終われるかしら。

 

 

 

 

P.22

 

 

五人揃ったソファ席を眺めながらインタビューは、今まで特に大きなトラブルもなく淡々と進んでいる。

 

 

「メンバーの皆さんにお聞きします。“好きな女性のタイプ”は?」

 

 

ベタだが、この手の話題が一番女の子が好きなのだ。

 

 

変に捻った質問より彼女たちが興味を持っている話題を持ってくるのが一番いい。

 

 

「優しい子」とか

 

 

「元気な子」とか

 

 

さっきから無難な答えが返ってきて、受け答えまで優等生なメンバーの中

 

 

 

 

 

「『社内イチ冷たい女』とか『三年は彼氏が居ないだろう』って噂されるような女性」

 

 

 

 

長い足を組んだ禅夜が私の方を意味深に見つめながらにやりと笑って、

 

 

私はメモを取る手が止まった。

 

 

こいつ……

 

 

からかってやがる。

 

 

飛ばされるのがイヤとか言っておきながら、絶対私をからかって楽しんでるに違いない。

 

 

ぎりぎり…

 

 

ペンを握る手に力が入り

 

 

「何だよゼン、それ」とメンバーの中で笑い声があがった。

 

 

禅夜は私の隣で控えていたアシスタントくんに視線を移すと、片目を僅かに細めて冷たく見据える。

 

 

アシスタントくんはビクリと肩を震わせて、俯いた。

 

 

なるほど、あんたも一票を投票したってわけね。

 

 

まぁ分かるけどさー…

 

 

短大卒の私は二十で入社して、アシスタントくんは今春入社のフレッシュマン。

 

 

キャリアが違うとは言え、同い年の女にこき使われるのが気に入らなかったに違いない。

 

 

「でもさー、そうゆう女性ってそれだけのことを言われる努力をしてるんだよね。

 

 

がむしゃらにつっぱっしって、ただまっすぐに突き進んでるからそういう印象受けちゃうだけで

 

 

 

 

俺はその頑張ってる姿勢が好きだな」

 

 

 

またまた冗談を……

 

 

と思ったけれど、禅夜が向けてくるその視線はさっきボタンを外していたときと同じ真剣な目で―――

 

 

私は顔が熱くなるのをごまかすのに必死。

 

 

ペンを握る手が僅かに震えた。

 

 

 

 

P.23

 

「で、ではメンバーの方にお聞きします。現在気になる方とかはいらっしゃいますか」

 

 

これは完全な私のアドリブ。

 

 

隣の席でアシスタントくんもインタビュー内容の用紙を確認しながら目をパチパチ。

 

 

まさかこんなこと聞かれると思ってなかったのか五人は顔を見合わせ―――

 

 

 

ふん

 

 

さっきはよくもからかってくれたわね。

 

 

これはお返しよ、とばかり私は禅夜を睨んだ。

 

 

改めてメンバーを見据えると、メンバーは私のアドリブにも

 

 

「仕事が忙しくてまだまだ余裕がありません」

 

 

と、これまた無難な答えを返してくる。

 

 

そして禅夜は

 

 

 

 

 

「居ますよ。気になるレベルじゃなく、何か……堕ちたって感じの人」

 

 

 

 

 

 

またも言い出して、今度こそ私の手からペンが転がり落ちた。

 

 

それを慌てて拾うアシスタントくんがペンを私に差し出してくるのさえも分からず、

 

 

「運命的な?ゼンてそうゆうの信じるたちだっけ?」

 

 

とメンバーの一人がからかうように笑う。

 

 

 

 

 

「最初は美人だラッキーぐらいに思ってたけどさ~

 

 

俺は色々行き詰ってて、才能や実力に限界を感じてた。

 

 

 

精神的にもかなりしんどくて、そんなときさ

 

 

『逃げるな』って背中を押してくれた人なんだ。

 

 

 

 

俺のこと何も知らないくせに、真面目で凄く真剣に向き合ってくれて

 

 

俺がこの仕事を好きなことを気づかせてくれた人。

 

 

 

 

管理職目指して、マンション買うために貯金して、一人で生きていく決意をしちゃうような人だけど

 

 

 

俺が支えてあげたいな、って思う人」

 

 

 

 

 

P.24

 

 

また私をからかって―――……

 

 

生意気よ。

 

 

そんな甘い言葉で堕ちるような安い女じゃないわよ、私は―――

 

 

でも

 

 

 

落ちたペンと同じように私の心もこのときすでに彼に

 

 

 

堕ちていたのだ。

 

 

 

 

 

 

―――

 

 

 

「……以上でインタビューを終了させていただきます。このたびはお忙しい中お時間を取っていただきありがとうございました」

 

 

メンバーの一人一人と握手を交わし、

 

 

最後、禅夜の手を握るときは何故か緊張した。

 

 

彼の手は骨ばっていて当然だけど私の手より大きい。

 

 

細く長いきれいな指が私の手の甲をなぞり、

 

 

「冷たい手だね」

 

 

そう言って彼の手はすぐに離れていった。

 

 

なぜか名残惜しかった。

 

 

この手を温めてくれるのが彼であって欲しい、と立場もわきまえず図々しくも願ってしまった。

 

 

「今日はありがとうございました」

 

 

最後再度リーダーの子に頭を下げられ、私は恐縮したように慌てて頭を下げた。

 

 

禅夜より少し年上だろうか、さすがリーダーを任されるだけの落ち着きがあって、いかにも常識がありそうな子だった。

 

 

「こちらこそ」

 

 

「いえ…ゼンのことです。あいつ……最近本当に参ってみたいだから…」

 

 

え……?

 

 

 

 

 

P.25

 

 

「アイドルの悩みなんてあなた方からすると大したことでもないと思いますけど、

 

 

でもあいつ…このところずっと思い悩んでて、大げさかもしれないけど人生の岐路に立っているって意識してるようでした。

 

 

あんまり自分のこと話さないけど、見てて分かります。付き合いが長いから」

 

 

人生の岐路―――……

 

 

 

「女の子にキャーキャー言われて、それで稼げるんだからおいしい仕事だとは思いますけど、

 

 

あいつ本当は顔じゃなくて歌で売れたいんですよ。

 

 

事務所の戦略と自分の目指したいものの間で揺れに揺れて葛藤してるんです」

 

 

そう言えばそんなようなこと言ってた…

 

 

でも思いつめた印象を受けなかった。

 

 

だって彼は笑って軽い調子で…

 

 

 

 

 

「あいつが今日インタビューに答えなかったら、きっともう本当に辞めてた。

 

 

 

それをあなたが連れてきてくれた。ありがとうございます」

 

 

丁寧にお礼をされて、私は戸惑いながらも黙って頭を下げるしかなかった。

 

 

『ありがとうございます』なんてこと私は何もしてない。

 

 

自分の言いたい事喚いて、泣いて、相手アイドルだって言うのに足蹴にしちゃったし。おまけに説教までしてしまった。

 

 

インタビューに答えてくれたのはまさに奇跡としか言いようがない。

 

 

それでも

 

 

来てくれた。

 

 

 

 

 

P.26

 

 

「ゼンの人生だから、俺があれこれ言える立場じゃないけど、

 

 

でも俺やっぱり五人で活躍したいんですよ」

 

 

 

いつまでも五人で。

 

 

 

 

「Placeの曲にはゼンの独特な高音が必要なんですよ。あいつの声が入ってはじめて完成する。

 

 

生意気にアーティスト気取ってるって思われるかもしれないけど」

 

 

リーダーの子は恥ずかしそうに笑って、私は頭を横に振った。

 

 

 

「あいつの声、いいでしょ?」

 

 

 

そう聞かれて

 

 

「ええ、とても」私は素直な意見で即答した。

 

 

「まぁ声だけじゃないですけどね。ずっと一緒に居たいなんて言ったら子供みたいで

 

 

声を言い訳にしてるだけかもしれないけど」

 

 

「そんなこと……ないです」

 

 

私は紙面に走る上辺だけのデータで彼らを見ていたけれど、もっともっと掘り下げていくと、彼らは顔以上に声以上に魅力的な何かがある。

 

 

私は他のメンバーとふざけてじゃれあっている禅夜をぼんやりと眺め、

 

 

その視線に彼が気づいたのかふと振り返り

 

 

「ばいばい、またね。環」

 

 

口ぱくでそう動いた。

 

 

 

 

彼らの魅力―――禅夜の魅力

 

 

 

それを伝えたい。

 

 

 

 

 

それが私の情熱。

 

 

 

最後の最後に

 

 

「あ、それと。そのストール似合ってますよ。

 

 

ゼンの好きそうなデザインだけど、あなたの方がよほど似合う♪」

 

 

 

いたずらっぽくリーダーに微笑まれて、私は思わず目を開いた。

 

 

き、気付かれてる…!?

 

 

そう思って視線を泳がせていたけれど

 

 

「付き合い長いんで、ゼンの女性のタイプも知ってます」

 

 

リーダーは禅夜とは違った色気のある視線で小さくウィンク。

 

 

バカげた疑問だったけれど、

 

 

 

「好き」

 

 

 

 

 

 

あれはどこまで本気なんだろう。

 

 

私は禅夜がくれたストールの端をそっと握り締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.27

 

 

―――

 

 

数日後。

 

 

私は締め切りが迫った原稿を仕上げるため、一人夜のオフィスのデスクに向かっていた。

 

 

ボイスレコーダーを再生しながら、禅夜の言葉に頭を悩まされている。

 

 

通常ならテープ起こしなんて一日もあれば仕上がるってのに。

 

 

まさかこんな言葉をそのまま載せるわけにはいかないし。

 

 

てか何を考えてるのよ、あのアイドルさまは。

 

 

呆れながらも、一向に進まない原稿の画面とにらめっこ。

 

 

禅夜のふざけた受け答えもそうだけど、彼らの魅力を伝えなきゃと言うプレッシャーと言うのもある。

 

 

みんながまだ知らない一面を、読者の皆さんに伝えたい。

 

 

そして彼らの魅力に気づいてもらいたい。

 

 

考えてたら…目が痛くなってきた。

 

 

諦めて、私はたった三枚出てるシングルCDの曲をiPodで再生した。

 

 

アイドルのCDを買うなんて恥ずかしいけど、でもすぐに三枚買ってしまった。

 

 

勉強のためよ、原稿のためよ、なんて言うけどあの短い一日で彼らのことをもっと知りたくなった。

 

 

ミーハーなファンじゃないなんて言ったけど、私は彼女たちとなんら変わらない。

 

 

はじめて聞く彼らの声は、さすが事務所が推すエリートグループなだけあって上手かった。

 

 

特に禅夜の声は、澄み切るテノール。

 

 

声量も申し分ないし、高音もブレたりなく安定している。

 

 

それはしっとりとしたバラード曲だった。

 

 

愛の言葉を乗せた禅夜の声が私の耳を心地よくくるくる回る。

 

 

 

 

 

~♪肩肘張らないで、無理しないで

 

 

僕が居るよ。

 

 

僕の手をとって、さぁ一緒に歩こう

 

 

 

 

 

 

曲を聴きながら私はキーボードに指を滑らせた。

 

 

 

 

P.28

 

 

―――

 

 

 

その一ヵ月後、例の記事のゲラが仕上がり、

 

 

「ふーん、まずまずだな。若干硬い感じがするが、悪くない。

 

 

その分内容の濃さでカバーしてるしな」

 

 

と編集長の満足そうな顔を見て私はほっとため息。

 

 

「良くやってくれた。なかなかの出来だぞ♪売れたら第二段だ」

 

 

勘弁してください。第二段なんて私の身がもたない。

 

 

「安藤、最近感じ変わったか?

 

 

前はもっと記事もお前自身もとっつきにくそう、って感じだったのに」

 

 

随分はっきりと言ってくれる。

 

 

「どうも」私は素直にお礼を言い、だけどその礼とは全然関係ない話題で

 

 

「そのストール気に入ってるのか?」

 

 

今日も私の首にかかってる禅夜がくれたストールを編集長が指さし、

 

 

「え、ええ。まぁ」と私は慌てて苦笑い。

 

 

誰も禅夜がくれたものだなんて気づかないはずだけど、何となく気恥ずかしくもある。

 

 

「男からの贈り物か?」

 

 

ニヤニヤ言われて、

 

 

「ち、違います!」

 

 

私は慌てて否定した。

 

 

 

 

嘘だけど。

 

 

 

 

 

「そっか~それなら良かった」

 

 

と横から声が入り、社会部のエリートとも言われてるライターの三田さん(♂)がにこにこ私を覗き込んでくる。

 

 

三田さんは、顔よし、収入よし、仕事がデキる二十六歳独身。当然狙ってる女子社員は多い。

 

 

「何だ三田、安藤を狙ってるのか?」

 

 

編集長は意地悪く笑って、

 

 

「あはは~まぁそんなところです」

 

 

三田さんは編集長の言葉を軽く受け流し、何かの書類を提出していた。

 

 

私は小さく頭を下げてその場を立ち去ったが、フロアを出たところで

 

 

「安藤さん!」

 

 

三田さんに呼び止められた。

 

 

P.29

 

 

「なんでしょう?」

 

 

振り返ると同時に手首を掴まれた。

 

 

強引でない仕草に不快感は抱かなかった。

 

 

「突然ごめん。今日、夜って空いてる?」

 

 

そう聞かれて私は目をまばたいた。

 

 

それを私に聞く?

 

 

仕事が終わったら毎日行くコンビニでお弁当とビールを買って、一人寂しくテレビを見ながら食事をするだけだ。

 

 

「ええ…どうして?」

 

 

「いや、空いてたら食事とかどうかな…って」

 

 

三田さんが遠慮がちに聞いてきて、

 

 

え―――……?

 

 

私は目を開いた。

 

 

「いや、都合が悪かったらいいんだ!安藤さんと話してみたかっただけだから」

 

 

そう言われてまばたき。

 

 

「ダメ……かなぁ」

 

 

「だ、ダメじゃないです!」

 

 

私は慌てて頷いた。

 

 

だって「結婚したい男」ナンバー1を更新中の女子社員今一番憧れの三田さんだよ。

 

 

断る女子が居るかっての。

 

 

その日私は三田さんと食事に行く約束をして

 

 

緊張した面持ちで残りの仕事を片付けた。

 

 

でも

 

 

首に下がったままのストールがやけに手首に絡まり、メモを取っていた私の手を何度も止める。

 

 

まるで

 

 

 

 

禅夜に

 

 

 

 

「行くな」

 

 

 

 

 

と言われてるみたいだった。

 

 

でも仕事の関わりがなければ彼は全然別世界の人。

 

 

手の届かない遠い存在よりも、手の届く身近な存在の方が今の私には必要なのだ。

 

 

 

私はストールを外して引き出しの中にしまいこんだ。

 

 

 

 

P.30

 

 

――――

 

 

三田さんが連れてきてくれたのは会社からそれほど離れていないお洒落なイタリアンのお店だった。

 

 

「安藤さん、最近変わったね」

 

 

そう言われて私はぎこちなく頷いた。

 

 

「そう……ですか?」

 

 

だとしたら禅夜の一言があったからだ。

 

 

彼との出会いがあったから、今の私がある―――

 

 

と思いたいけれど変わったのは外見だけ。

 

 

難しい名前のパスタをフォークに巻きつけながら、緊張しながらの食事は一向に進まなかった。

 

 

当然味なんて分からない。

 

 

「安藤さん音楽って聴く?」

 

 

ぎこちない雰囲気の中、何の話の流れか忘れたけどそう聞かれて

 

 

「あ、はい」

 

 

と何とか答えた。

 

 

「どんなの聴くの?」と言う質問に

 

 

「Placeとか……好きです」

 

 

答えたあとになって後悔した。アイドルの曲を好きだって言ったら引かれるかと思いきや、その心配は必要なかった。

 

 

「Place?俺知らないなー」

 

 

………

 

 

私の食事の手は完全に止まった。

 

 

それはまだ駆け出しだけど、とても良い歌を歌うアイドル歌手で、同時に人間としての魅力がたくさんあって、そして彼らの記事を私が手がけたと言う誇りもあったのに、

 

 

その二つをあっさり無視された気がして、何となく居心地が悪い。

 

 

 

「どうしたの?腹いっぱい?」

 

 

「いえ…」

 

 

私は慌てて言ってワイングラスに注がれた赤ワインを口にした。

 

 

この居心地の悪さを飲み込むように。

 

 

 

その後話題は変わり、私は何となく会話を楽しめないまま食事を終えることになった。

 

 

そしてその後―――

 

 

 

三田さんは当然のことのようにホテルに誘ってきて、

 

 

それほど好きじゃないのに、何故かホテルについていってしまった。

 

 

別世界の遠い人よりも

 

 

 

 

身近な存在が

 

 

 

 

 

 

必要だから―――

 

 

 

 

 

 

 

P.31

 

 

三田さんの腕に抱かれながら、でも

 

 

思い浮かべていたのは禅夜の姿だった―――

 

 

彼のまなざし、彼の手の感触、体温、香り―――

 

 

全部が三田さんと違って、想像の中の禅夜は目の前の三田さんよりずっとずっと優しかった。

 

 

久しぶりのセックスに少し疲れたってのもある。緊張もしてたし。

 

 

てか緊張して気持ち良かったのかどうかも分からない。

 

 

私は行為のあとすぐに寝入ってしまって、

 

 

朝目が覚めると、隣に三田さんの姿はなかった。

 

 

“ごめん、仕事が入ったからもう行くね。

 

 

ホテル代は払っておいたからチェックアウトだけして”

 

 

とそっけないメモ書きを見て、

 

 

「何やってんだ、自分」と早速後悔。

 

 

遊ばれただけ、だと気づいたのは割りとすぐだった。

 

 

身近な存在ですら手に取ることができないようだ。

 

 

どうせ遊ばれるのなら、ちょっとズレてるけど美しく、微細ながらどこか心に残る色気のある禅夜の方が良かったわ。

 

 

と冷めた目でメモをゴミ箱に捨てて、私はホテルを後にした。

 

 

――――

 

 

その後、当然ながら三田さんからは連絡なんてこなくて、社内で顔を合わせても挨拶だけの随分あっさりしたやり取りが続いていた。

 

 

数日後、会社で喫煙室でタバコを吸っていた三田さんを発見したけれど、私は何となく顔を合わせづらくて立ち止まって壁に身を隠した。

 

 

三田さんは一人じゃなく、誰か違う男性社員と一緒だった。

 

 

「三田~♪俺、こないだ安藤さんとレストランに入ってくとこ見ちゃった~。

 

 

お前ら付き合ってるの?」

 

 

ギクリとして目を開いていると

 

 

三田さんはうまく否定するかと思いきや

 

 

「まさか。食事してその後ホテル行って彼女を食っただけだって」

 

 

「マジかよ。あの安藤さんと!気をつけろよ~安藤さん美人だけど

 

 

あのタイプは勘違いして彼女面してくるからな」

 

 

「その点は大丈夫だって。向こうも遊びのつもりだったのかあっさりしてるし。

 

 

ま、ありがたいけどな」

 

 

二人は私がすぐ近くに居るとも知らずゲラゲラ下品に笑っている。

 

 

 

 

 

 

P.32

 

 

遊ばれてるだけ、ってのは分かってたけどね。

 

 

それを笑い話にして言いふらす??

 

 

ふざけんじゃないわよ。

 

 

私は抱えていた書類のファイルをぎゅっと握って唇を噛んだ。

 

 

でもこのまま泣き寝入りするなんてプライドが許さない。

 

 

前はこんなこと言われても黙ってやり過ごしていたのに、今は違う―――

 

 

こんなにもはっきりと誰かに何かを言えるようになったのも

 

 

 

禅夜のおかげかな。

 

 

 

冷たい?そう言われても結構よ。

 

 

冷たくても、禅夜の好きな強い女になってみせるわ。

 

 

私は一歩前に進み出ると、喫煙コーナーをノック。

 

 

「三田さん」

 

 

声を掛けると二人はぎょっとしたように目を開いた。

 

 

私はにっこり。

 

 

「こないだはどうも“ごちそうさま”でした。

 

 

勘違いするほど“おいしく”もなかったのでお気になさらず」

 

 

最後は声を低めて彼を睨むと、彼は目を開いたまままばたき。

 

 

ふん、女を舐めると痛い目に遭うんですからね!

 

 

私はヒールを鳴らしてその場を立ち去った。

 

 

 

 

最低、最低最低―――!

 

 

 

 

何が最低だって……?

 

 

 

そんな男だと見抜けなかった私が

 

 

 

 

 

最低。

 

 

 

 

 

 

P.33

 

 

気が滅入っているときはこれに限る。

 

 

私はPlaceの音楽を聴きながら会社を退社した。

 

 

~『今夜も一人…

 

 

君を想って僕は空を見上げる。

 

 

 

無かったことなんてできない』

 

 

 

それは切ないバラード曲で失恋ソングだった。

 

 

タイムリーだな。

 

 

まぁ失恋したって言うほど、三田(←もう呼び捨て)のこと好きじゃなかったけれど。

 

 

でもPlaceが歌うと、どうしてこんなにも胸が苦しくなるんだろう。

 

 

どうして禅夜の声は―――切なくさせるんだろう。

 

 

iPodじゃなく、直接彼の声が聴きたい。

 

 

「ずっ」

 

 

鼻を啜って目頭を押さえながら会社の自動扉をくぐると、

 

 

すぐ脇の生垣の塀に、男が一人―――腰を下ろしていた。

 

 

黒のパンツに白のカットソー。グレーのパーカーと言うシンプルないでたちだったけれど、

 

 

夜の闇の中でも輝くその姿が

 

 

 

 

 

禅夜だと気づいた。

 

 

 

 

 

へ―――……?

 

 

禅夜は私を見つけると

 

 

「あ、お疲れ~」と気軽に手を振ってきた。

 

 

「何で!?」

 

 

みっともないほど声がひっくり返ってしまったのはそれぐらいびっくりしたことだから。

 

 

「もう打ち合わせはないわよ?」

 

 

思わずそう言うと

 

 

「打ち合わせのためじゃない。これは完全なプライベート」

 

 

そう言って彼は立ち上がり

 

 

 

 

 

「環に会いたかったんだ」

 

 

 

 

 

 

 

無邪気な少年のような笑顔を浮かべて彼はまるで当然のように言ってのけ、私はまたも目をまばたいた。

 

 

 

 

 

 

P.34

 

 

私は慌ててイヤホンを耳から抜き取り、泣いていたことを悟られないために目元を拭いながらきょろきょろ。

 

 

「こ、こんなところに気軽に来ていいの!

 

 

誰かに知られたら」

 

 

「暗いし、俺なんて誰も気づかないって」

 

 

そうは言うけど……

 

 

「それよりも、泣いてたの?」

 

 

禅夜が私を覗き込みながら、大きな目を少しだけ細めて眉を寄せた。

 

 

「な、泣いてなんかない」

 

 

慌てて否定するも

 

 

「また強がっちゃって~会社で苛められた?

 

 

愚痴なら聞くよ?また前みたいに喚いても全部聞くから」

 

 

にこやかにそう言われて、ありがたかったけれど

 

 

「できればあれは忘れてほしい」

 

 

私はがくり。

 

 

 

「忘れられないよ。だって強烈だったし。

 

 

女に足蹴にされたのもはじめてだしね」

 

 

「今度は平手打ちにして欲しい?」

 

 

そう言って手を挙げると、

 

 

「勘弁して。顔はアイドルの命だから」

 

 

と禅夜は苦笑。

 

 

彼はもう―――

 

 

 

 

 

逃げ出すことをやめたようだ。

 

 

 

 

 

 

P.35

 

 

「それより見て!じゃーん♪」

 

 

禅夜は嬉しそうに言って、女性ファッション雑誌を広げた。

 

 

それは私が記事を載せている雑誌で、最新雑誌の開いたページは私が担当したページだった。

 

 

彼ら五人の個別の顔写真と、五人揃ってのポーズ写真が一枚載っている。

 

 

「ちょっとやめて、恥ずかしいから」

 

 

私は慌てて顔を背けたけれど

 

 

「恥ずかしいのは俺の方じゃね?だって自分の写真が載ってるし、書かれてるし、丸裸にされてる感じ」

 

 

「丸裸ぁ?」

 

 

「丸裸じゃん?

 

 

“ゼンの声は心地よいテノールの声。きれいな高音とくすぐるような低音が漣のように耳に心地よい。

 

 

誰もが目に留める華やかな顔立ちと、しっとりとした声は女の子にギャップ萌えをもたらしくてくれるでしょう”って」

 

 

ギャー!!

 

 

「ちょっとマジでやめて!読み上げるのはダメ!」

 

 

自分でも赤面してしまうような文面は、一人真夜中にオフィスでこもって書き上げたもの。

 

 

「そんなこと想ってくれてたんだね~環。

 

 

環の本心が知れて嬉しいよ。

 

 

でもさ~お互い裸になるんならベッドの上の方が良くね?」

 

 

さらりとそう言われて

 

 

またこのアイドル様は…と若干しらけた顔で禅夜を見上げると

 

 

「『からかうのはやめて』だろ?

 

 

聞き飽きたよ、その言葉。最初からからかってねぇし」

 

 

 

禅夜は片目を細めて僅かに眉の端を吊り上げる。

 

 

何となく分かった。

 

 

彼のそれは

 

 

 

 

不機嫌の表れ、だと。

 

 

 

 

 

P.36

 

 

「でも環のおかげで今度CM来た。それも二本!五人のライブ裏側密着取材の番組もあるし」

 

 

「ホントに!!」

 

 

私は目を輝かせて「キャ~♪良かったぁ」思わず飛び上がり、禅夜と手を叩き合った。

 

 

これで私の異動は免れた、ってのはもちろんだけど、やっぱりPlaceのみんながそうやって活躍してくれるのは嬉しいことだ。

 

 

「取り上げてくれた環のおかげ。

 

 

アオイ(リーダー)も感謝してたよ。

 

 

てことでぇ、今度のライブ地方のちっさいホールだけど、席おさえた。

 

 

環の席」

 

 

そう言って彼はコンサートチケットを取り出し、私の目の前でひらひら。

 

 

「え?」

 

 

「来てよ。アリーナの最前列♪」

 

 

マジで……

 

 

「来てよ」

 

 

強引でない程度に言って彼は頭をぽんぽん。

 

 

何よ、そんなストレートに愛想振りまいてるんじゃないわよ。そんなことされたら…

 

 

その気になっちゃうじゃない。

 

 

私はおずおずとそのチケットを受け取ると、

 

 

「もう悲しくない?」

 

 

と彼が聞いていた。

 

 

「え……?」

 

 

「だってさっき泣いてたじゃん?」

 

 

「あーうん…ちょっと自分でもバカなことやっちゃったなーって思って。

 

 

イヤになる」

 

 

何でか知らないけど、私は禅夜の前で何でも素直に心の内を話せる。

 

 

 

 

 

 

P.37

 

 

私はかくかくしかじか三田とのことを話し聞かせた。

 

 

「はぁ!何だそれっ」

 

 

禅夜は話を聞き終えたあと、こっちがびっくりするほどいきりたった。

 

 

「てか早速浮気かよ!俺が居ながら」

 

 

と真剣な顔で睨まれる。

 

 

「浮気って……私たち付き合ってないじゃん!」

 

 

「え!そーなの!!」

 

 

そーなの!?って……何なのこの子。

 

 

ちょっとズレてるのはアイドル様だからか?

 

 

「てかあんたなんてわざわざ私を選ばなくても、女の子なんて選り取りみどりでしょ?」

 

 

「俺は環がいいの。

 

 

じゃさ?付き合おうよ」

 

 

またも『ちょっとそこのコンビニ付き合って?』ぐらいの気軽さで言われて

 

 

私は額を押さえた。

 

 

「あんたねー……まだプロ意識が足りないみたいね。

 

 

芸能人が気軽に恋愛できると思ってるの?」

 

 

私が禅夜の眉間に指をさすと彼はまたも寄り目。

 

 

彼は肩をすくめて

 

 

 

 

 

「足りてるよ?自分の立場も分かっていながら言ってるの。

 

 

言ったろ?

 

 

堕ちた、って」

 

 

 

 

そう言って彼はホテルの名前と部屋のナンバーを書いたメモを指に挟み掲げた。

 

 

 

 

 

「ライブが終わったあと来てよ。来てくれたらOKだと思うことにする。

 

 

俺は真剣だよ」

 

 

 

 

 

 

 

P.38

 

 

真剣だよ、なんて真剣に言われたら疑う気持ちが薄れる。

 

 

私はメモを受け取り、

 

 

「あー、それとライブのときはそのヒールやめた方がいいよ?」

 

 

彼は意味深ににやり。

 

 

 

 

――――

 

 

ライブ当日まで私はずっと部屋ナンバーが書かれたメモとにらめっこ。

 

 

う゛~ん…果たしてどこまで本気なのだろうか。

 

 

あれから約二ヶ月経ったけれど、その二ヶ月の間で答えを見出せなかった私。

 

 

大体二ヶ月もあれば向こうの気が変わるかもしれないし。

 

 

鵜呑みにしてノコノコ会いに行くのもバカを見そうだ。

 

 

気まぐれかもしれないし。

 

 

なんて言うけど、本当はこの部屋に行くことを―――心の中のどこかで決めていた。

 

 

ライブ当日、あまのじゃくな私はやめた方がいいと言われていたヒールを履き、仕事帰りだったからスーツと…そして彼がくれたストールを巻いてライブに出かけた。

 

 

小さな会場と言ったけれど、ファンの子たちはすでに集まっていて人だかりができている。

 

 

アリーナの最前列で、きらびやかな会場の中場違いな私はおずおずとその席に腰を下ろした。

 

 

ライブもそうだけど、私はこのあとのホテルの部屋でのことを考えて緊張が止まらない。

 

 

その緊張の中、ライブははじまった。

 

 

―――その日のライブは盛況だった。

 

 

はじめて見る生のPlaceはiPodで聴くその歌よりもずっとずっと良くて、インタビューをしたときよりも禅夜はずっとずっと輝いていた。

 

 

そして

 

 

 

足が痛い!

 

 

 

 

 

 

P.39

 

 

禅夜が言ってた意味ようやく分かったわ。

 

 

余力も考えず、つい弾けすぎちゃった。

 

 

「もー!!さいっこ~Place!!♪

 

 

アオイ大好き~!!」

 

 

「私はリクLOVE★」

 

 

ホテルのロビーで、地方からのおっかけファンの子たちがまだコンサートの余韻に浸っているのか黄色い声でキャイキャイ。

 

 

ゼンは…ゼンはどうなの??

 

 

そう思って彼女たちの会話に耳を潜めていると

 

 

「あの席最高!ゼンが近くに来てくれたの~~♪♪」

 

 

一人の子が言って、禅夜の顔が乗った大きなうちわをひらひら。

 

 

ドキリ、とした。

 

 

それは複雑な気持ちだった。

 

 

禅夜のことを好きになってくれて嬉しいのと、それを知ると彼が私からまた一歩遠ざかっていく気がして。

 

 

一瞬だけホテルをから帰ろうと、出入り口に足が向いたものの

 

 

やっぱり私はフロントに向かっていた。

 

 

『環の名前で予約しておいたから。チェックインだけして部屋で待ってて』

 

 

言われた通り私の名前でチェックインすると

 

 

 

上層階の部屋へと案内された。

 

 

 

スイートルームじゃなくて良かったけれど、意味深なダブルベッドが目につく。

 

 

 

 

 

 

 

P.40

 

 

私はヒールの靴を投げ出し、椅子に腰を下ろした。

 

 

落ち着かないそぶりでストッキングの足のまま目的もなく部屋をうろうろ。

 

 

テレビをつけてみたり。

 

 

BGMをならしてみたり。

 

 

一時間ぐらいそうやって過ごしていたけれど、先にシャワーを浴びておくことに決めてバスルームに入った。

 

 

シャワーを浴びている最中に、インターホンが鳴る心配をしてバスルームの扉を開けたまま。

 

 

でも慌しくシャワーを浴びたあとも、その後暇つぶしに流していたバラエティー番組が終わっても、

 

 

ニュースが今日の終わりを告げても、真夜中になっても、カーテンを開けた窓の外が明るくなっても

 

 

 

 

 

 

彼が現れることはなかった。

 

 

 

 

 

やっぱり―――……からかわれてただけか。

 

 

 

今頃笑ってるんだろうな…

 

 

バカな女だって。

 

 

ええ、バカですよ私は。

 

 

たった一夜の遊び相手にもならない、女だ。

 

 

「来ないってさー、三田よりひどくない?」

 

 

チェックアウトをする一時間前、冷たいベッドに腰を下ろしてナンバーが書かれたメモ用紙を冷めた目で眺めた。

 

 

それでも三田のときのようにゴミ箱に捨てることができないのは

 

 

何故なんだろう。

 

 

 

 

結局彼の登場を迎えることなく、私はチェックアウトした。

 

 

 

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