Fahrenheit -華氏- Ⅱ

 

運命に惑わされ、陰謀に溺れて

 

 

■Time over■

 

 

 

 

 

 

 

*Time over*

 

 

 

 

People are all creatures that are dominated by time.

(人は全てに置いて時間に支配される生き物)

 

 

 

 

How to effectively use that "time" depends on that person.

(その“時間”をいかに有効活用するかは、その人次第)

 

 

 

 

 

But,

(でも)

 

 

 

 

 

Everybody flows equally in time.

(時間は誰でも皆、平等に流れる)

 

 

 

 

 

 

"There is no time," people say.

(『時間がない』と人は言う)

 

 

 

 

But, it depends on how it is used.

(でも、それは使い方次第)

 

 

 

I don't want to rule over what is called "time".

(私は『時間』と言うものを支配したいと思わない)

 

 

 

 

It is up to you how important it is.

(ようは使い方次第)

 

 

 

 

 

 

 

Up to you.

(あなた次第)

 

 

 

 

 

 

P502

 

 


 

 

 

約束の16時をちょっと前にして、突如俺のケータイが鳴った。

 

 

TRRR

 

 

機械音は、テレビもつけてなければBGMも無い部屋に無機質に響いた。

(てか裕二と『二人きり』でBGMとか有り得ねぇし!)

 

 

二人揃ってビクゥ!と肩を震わせる。

 

 

思わず裕二と顔を見合わせ……(って言うかこいつと顔を見合わせたくねぇっつの!)でもそうすることしかできない俺ら。ホント……情けねぇな。

 

 

最初は裕二のケータイが鳴ったのか、あのストーカー女から『着いたよ』コールが来たのかと構えたが、裕二は自身のケータイに目をやり、ついでゆるゆると顏を横に振った。

 

 

と言うことは俺??

 

 

もしかして瑠華かもしれない。なんて淡い希望(?)←この場合、何の希望だよ、って突っ込みたくなるが、どんな些細なことでもいい。瑠華からの連絡なら秒速で取れる!とさえ自信のあった俺が

 

 

 

 

 

“着信:綾子”

 

 

 

 

 

ディスプレイに走るこの文字を見て、硬直した。

 

 

俺は思わず裕二を見た。今更綾子から個人的に連絡が来ようと動揺なんてしない。四年と言う間同期をやってたし、個人的な付き合いだってある。

 

 

でも、今は何だか不吉な予感て言うのが払拭できず、思わずケータイを裕二に見せる。

 

 

「綾子……」

 

 

裕二が自身の女の名前を呟き、一瞬全ての計画がバレたのかとひやりとしたが、それだったら俺に、ではなく裕二に直接問い詰めるだろう。あいつはそうゆう女だ。

 

 

しかも瑠華が迂闊にこの計画のことを喋るとは思えない。そりゃ嫌々引き受けてくれた……って言うか引き受けさせたって言うかね……半ば強引に頼みこんだ俺が悪いんだけど、でも瑠華はこうと決めたことを曲げることはない。

 

 

一本芯が通った

 

 

そんな女だ、瑠華は―――

 

 

 

 

 

じゃぁ何で―――………?

 

 

 

 

 

P.503

 


 

 

 

約束の16時はもう目前だ。それにしてもこのタイミング……

 

 

出ようか出ないか迷った挙句、裕二から「出ないでくれ」と言う意見…と言うか懇願?を無視し、結局出ることにした俺。

 

 

だって綾子は今、瑠華と居る。

 

 

瑠華に何かあったんじゃないか―――そんな気がしてならなかった。

 

 

それをまずはじめに考えるのは『彼氏』として『恋人』として当たり前のことだろ?

 

 

「も……もしもし?」

 

 

何故か緊張で汗ばんだ手のひらでケータイを必死に支えながら、俺は恐る恐ると言う具合で電話に出た。

 

 

『あ、啓人?あんた今、どこ―――?』

 

 

と、綾子のくぐもった声の最初の質問に、俺は思わず裕二を見て、慌てて目を逸らした。

 

 

「どこって、外」

 

 

ハズレてはない。

 

 

綾子は瑠華と今、銀座の高級百貨店に居ると言う。遠くで品の良いJAZZのBGMが流れているが、綾子の声はどこか緊張を帯びていて、くぐもっている。

 

 

「てかお前、瑠華と買い物じゃないの?何だよ」

 

 

俺は自身のタグ・ホイヤーと裕二の部屋の壁に掛かった時計の間で視線を行ったり来たり。そんなことしたって時間が止まるわけでもないのに、いつ裕二をストーカーしている女が現れるかどうか分かったもんじゃない。

 

 

「綾子は何だって?」裕二がメモを寄越してきて、俺はそれに対して首を横に振った。

 

 

『柏木さんは今、ドレスをフィッティング中よ。それよりあんたに聞きたいことがあるの』

 

 

聞きたいこと……と言うのが何なのか気になったが、

 

 

それよりも!瑠華がドレスをフィッティング中!!あらぬ想像をして鼻血が出そうだった。

 

 

てか、俺も見てぇし!!

 

 

何が悲しくて野郎の部屋に二人きり↓↓

 

 

天国と地獄だな。

 

 

 

P.504



 

 

綾子の簡潔な話に寄ると、瑠華と綾子は二人で昼食を牛丼屋で済ませたらしい。

 

 

って言うか何!!その色気のないランチは!

 

 

色々突っ込みどころはあったが、いかんせんこちらも時間を押している状況。

 

 

余計な質問を極力控えて、綾子が言わんとすることを促した。

 

 

綾子の話は―――牛丼を食ったあと、二人は近くの喫煙場でタバコを吹かせていたらしい。まぁ?愛煙家なら食後の一服ほどうまいものはないからな、気持ちは分かるが。

 

 

 

 

『柏木さん、そのとき様子が変だったの。

 

 

吸ってたタバコを―――……』

 

 

 

 

綾子は言葉を濁したが、やがて重大な何かを告白するように大きく息を吸って言葉を紡ぎ出した。

 

 

綾子の言葉を聞いて、俺の手からケータイがすり抜けそうになった。元々緊張していたのはある。汗で手が滑った、と。目の前で不安そうにしている裕二に言い訳を取り繕うことなんて簡単だ。

 

 

だが、俺の言葉は思った以上に震えていた。

 

 

「―――で…?瑠華は……?」

 

 

『大丈夫よ。火傷の一つも負ってないわ。私が止めたから。強引にタバコを奪ったの』

 

 

綾子の言葉に俺の腰から力が抜けて行くのが分かった。腰が抜ける、ってこのことを言うのだろうか。

 

 

力なく近くのソファの背もたれに腰を落とすと、目の前で裕二が益々不安そうに俺の方を見る。

 

 

「大丈夫だ。綾子には計画がバレてねぇ」何とか口パクで伝えると、ニュアンスでそれが伝わったのかどうか裕二も同じように額に手を置き太いため息をついた。

 

 

『その後、彼女は胃痛だとか言って薬飲んでたけど、

 

 

ねぇ、あの薬、本当に胃薬なの?』

 

 

綾子が思いっきり不審そうに俺の意見を仰ぐ。

 

 

「瑠華がそう言うのならそうなんじゃね?俺も詳しくは知らない」

 

 

そう返すのが一番妥当だと思われた。二人に瑠華の病気を隠す隠さない、と言う取り決めは俺たちの中で話し合われたわけじゃない。

 

 

だけど、知られていいことなんて何一つないのは分かり切っている。

 

 

 

P.505


 

 

 

「瑠華がそう言うんならそうじゃね?って言うかそのためにわざわざ?」

 

 

俺はことさら何でもない様子を装うのに必死。こめかみから嫌な汗が伝ってくる。

 

 

『そうかしら。

 

 

二村くんの前任の彼、ほら…四月付けであんたが異動になるまで、働いてくれてた川田さん、覚えてる?』

 

 

俺の中でほとんど忘れかけていた名前を唐突にひっぱり出されて、俺は目をまばたいた。

 

 

川田さんは……覚えている。前述した通り俺より五歳年上の31歳。真面目で、努力家。責任感が強く、佐々木と同じタイプの人間だ。

 

 

ただ、少し気の弱いところがあって、何度か納期遅延を出し、それで俺がメーカー側と交渉した覚えがある。

 

 

大人しくて、寡黙な男だった。

 

 

理由は―――うつ病だ。

 

 

噂に寄ると村木が彼を退職まで追いやったとか、何とか出回っているが真意は分からない。

 

 

「彼が何か……?」

 

 

俺はそう答えるのに精一杯。

 

 

 

 

 

直感。

 

 

綾子は―――気付いている。

 

 

 

 

 

『だから、柏木さんが川田さんみたいな病気じゃないかってこと?』

 

 

ストレートな質問に俺の喉がごくりと鳴った。

 

 

「さぁ、分かんね。それより綾子、タバコの件ありがとな。たぶん、ただ瑠華はぼんやりしてただけだと思うケド、最近疲れてるっぽいからサ、ちょっと注意散漫になってんだろ。彼女しっかり見えてちょっとおっちょこちょいな所があるから、気ぃつけて見てやって?」

 

 

う゛ー…我ながら下手な言い訳。

 

 

言ってて、それが説得力に足るものではないことに気づいたが……だって瑠華がおっちょこちょいってことはないもん。むしろ俺の方がやらかす率高めだし。

 

 

綾子は俺の説明に納得したのかしてないのか

 

 

『……分かったわ』と、やっぱり納得してねぇなこれ。どこか腑に落ちない様子で電話を切ろうとしたところだった。

 

 

~♪ピ~ンポ~ン♪

 

 

と、インターホンにしてはちょっと珍しいリズムでベルが鳴り、今度こそ慌てて電話を切ろうとしたが。

 

 

 

 

 

『ちょっと、啓人。あんたホントにどこに居るのよ。

 

 

それ、裕二のマンションのインターホンの音じゃない?』

 

 

 

 

 

 

 

鋭過ぎる突っ込みが入って俺は慌てた。

 

 

 

 

ヤベっ!綾子にバレるかも!!

 

 

 

 

P.506


 

 

 

「気のせいじゃね?じゃな」

 

 

俺は早口に言って今度こそ通話を切った。裕二は腰を浮かせてて、恐る恐るインターホンのモニターを覗こうとしている。

 

 

こちらが『応答』しなければ、相手方にこちらの様子を知られることはないけど、何となく身を潜ませたい気持ちは分かるかも。

 

 

モニターには、昨日裕二を会社まで追いかけてきた、見覚えのある女のアップが映しだされている。

 

 

それを見ただけで二人とも思わず後ずさりしたくなった。

 

 

「裕二、スマホ貸せ」

 

 

俺がモニターから目を離さずに手だけをくいくいさせると、訝しく思ったものの素直に俺の手元に自分のスマホを置く裕二。

 

 

俺はスマホの電源を切った。

 

 

綾子の疑い深い台詞。ぜってー裕二に掛けてくる筈だから、そうなったら元の木阿弥だ。計画は順調に進んでいる。ここでオジャンにするわけにはいかねんだよ。

 

 

 

 

 

裕二が綾子に真相を伝えられないワケ―――

 

 

それは綾子を巻き込みたくないから―――だ。

 

 

 

 

 

後は瑠華がどれだけ綾子を引き止められるか、だが。

 

 

こちらも終わったときに瑠華に電話をするように伝えてあるから、俺自身のケータイも切っても問題ないだろう。

 

 

プツリ―――……

 

 

ケータイの画面が暗くなり、完全にシャットダウンした。まるで外界からの攻撃を避けるように。

 

 

さぁ

 

 

 

はじまりだ。

 

 

 

P.507


 

 

 

「どうぞ~」

 

 

扉を開けながら、俺は似非クサイ笑顔でにこにこ、“彼女”を招き入れた。因みに裕二にはリビングで待っててもらっている。

 

 

女は最初びっくりしたように目を開き、

 

 

「あの……麻野さん……裕二の―――……?」とちょっと警戒するように顎を引いた。

 

 

「裕二の部屋に間違いないよ。どうぞ」

 

 

よそ行きの声で笑いかけ、客用スリッパを勧める。女は何故、裕二以外の男が居るのか分からないと言った感じで戸惑ってはいるが、大人しくスリッパに足を入れた。

 

 

白くてすんなりした足だ。

 

 

白地にヴィンテージ感を出した花の刺繍が施してあるワンピース。こげ茶のサッシュベルトを巻いている。髪は肩よりちょい下で、毛先をゆるく巻いてあった。

 

 

まぁ?見た感じからするとふつーに可愛いんだけどな。

 

 

でも重そうか、そうじゃないか、と聞かれたら前者だと即答できる。

 

 

瑠華や綾子みたいに気が強そうでもないし、シロアリのように猪突猛進タイプでもない。まぁある意味突っ込んでくるタイプはタイプだが、認めるのは癪だがシロアリはその辺空気を読むって言うか……

 

 

とにかく、流行の服装や髪形やメイクをしていても、いかにも恋愛慣れしてない感じが漂ってくるし。今でも俺の態度に困惑している様に見える。

 

 

が、―――その分、何だか粘着質そう。

 

 

ちっ。俺は心の中で小さく舌打ち。

 

 

 

 

一番厄介そうなのと寝やがって。

 

 

 

P.508


 

 

 

リビングで待っていた裕二が女の登場にあたかも『今気づきました』と言う態度でリビングから顔を出し(注:全部演技)、裕二の登場に女が明らかにほっとしたような表情を浮かべた。

 

 

「裕二、この人お友達?」と俺の方を見てちょっと不安そうに眉を寄せる。

 

 

「…ま、まぁ…?そんな感じかな……とりあえず入ってお茶でも…」

 

 

用意してきた台詞が妙に台詞臭くておまけにこっちが頭を押さえたいぐらい棒読みだったが、それ以上に『俺』と言うイレギュラーな存在の登場に女も困惑している様子。だから多少裕二の態度が不自然でも気にした様子はない。

 

 

ここまでは打ち合わせ通りだ。

 

 

作戦は―――……驚くことに瑠華が考えてくれた。

 

 

瑠華は最後の最後まで乗り気ではなかったが、きっと綾子の為を想ってだよな……しぶしぶと言った感じではあるが、だが確実に女を追っ払うよう作戦を練ってくれた。

 

 

掴みはOKだ!

 

 

裕二は女をソファに座らせて、“俺が”『あたかも慣れている』と言う感を出しながら、その横でコーヒーを淹れているのを手伝うフリ。

 

 

「裕二~!おまっ!これ賞味期限切れてっぞー。俺が居なきゃ何も管理できねんだよな」

 

 

と、ブツブツわざと大きめな独り言を漏らしては、ちらりと女の方を見る俺。

 

 

「あー、わりっ……」

 

 

裕二も俺の演技にノってくる。

 

 

女が俺たちの“関係”を不思議そうに……いや、いっそ怪訝そうに勘ぐっているようだ。

 

 

『いいですか?そもそも同性愛者の方々はどちらかが男役、どちらかが女役とかありません。

 

 

ですから必要以上に女っぽく振舞う必要はないのです。

 

 

いつものあなた通り、振舞ってください』

 

 

と、直前に瑠華から受けたレクチャーを思い出し、俺は言われた通り『素』全開。

 

 

だからなか?あまり疑われている感じは(今のところ)受けない。

 

 

『逆にあなたが女性っぽいのは見るに堪えません』

 

 

と、一言余分な瑠華ちゃん。クスン……俺だってホントは瑠華ちゃんのカッコいい(?)彼氏だけでありたいのに…

 

 

とイジけてる暇もない。

 

 

「どうぞ」

 

 

俺はにこにこ笑顔を全開にして、女にコーヒーカップのセットを差し出した。

 

 

その笑顔に偽りの『棘』と言うスパイスを効かせて。

 

 

 

P.509


 

 

「ど……どうも」

 

 

女が訝しみながらも、ちょっと裕二の方へ視線を向けるが、裕二はわざとらしくその視線から逃れる。

 

 

その行動にも意味がある。

 

 

“ここ”での“本命”が名も知らないこの女ではなく、『俺』と言うオトコだと言うことを気付かせるのだ。

 

 

女はこうゆうところで妙な勘が働く、と言うからこの行動だけでも充分打撃を与えられる、とこれも瑠華ちゃんからの仰せ。

 

 

更に追加攻撃。

 

 

「ごめんね~、裕二が砂糖切らしてて。俺“ら”コーヒーはブラック派だから~」

 

 

『俺ら』とワードを盛り込み、あたかも二人で居ることに慣れてる感!

 

 

フっ

 

 

見よっ!!このキレのある技と相手に不信感を突っ込む隙を与えないこのスピード感。

 

 

ま、まぁ??俺がこの技に慣れてるのは以前関係のあった女たちから「女が居るでしょ!」て責め立てられた時から身に着いている技で、言うならばこうゆう類のことで嘘ならいくらでも吐けるってことだ。

 

 

生憎、俺様は関係を持ってる女たちが鉢合わせると言う非常事態に陥ったことがないからな。女たちが顔を合わせたら?と言う時の行動は未だ未経験だが。

 

 

こんなときに思うのも何だけど、ちょっとは経験を積んでおいた方が良かった??何て今更。

 

 

女VS女だったら、そりゃ恐ろしい修羅場が待っているに違いない。だが生憎、今回は男VS女だ。

 

 

 

 

 

「……ゆ…裕二……この人本当にあなたの“お友達”なの?」

 

 

 

 

 

女が勘ぐってくれるのが予想より遥かに早かった。

 

 

「友達?」

 

 

俺の眉がピクリと動き、裕二を睨みつける。

 

 

裕二はマジで俺と女から睨みと、不信感をぶつけられて、今にも逃げ出しそうに腰を引く。

 

 

「裕二お前、俺のこと単なる友達としか思ってないわけ?

 

 

知らなかったぜ」

 

 

吐き捨てるように言うと、俺はやや大げさと言われる動作でガラスのテーブルを強く叩いた。

 

 

 

P.510


 

 

 

俺のテーブル叩きと言うのは勝手で完全なるアドリブ。

 

 

『お、おい!台本にない台詞だぞ!』裕二のビビった視線がそう語っていた。

 

 

『うるせぇ!つべこべ言わず付き合えってんだ!』と、こちらもこんな役やらされて不本意中の不本意だからな。不機嫌も重なって、随分迫力のある凄みに見えたようだ。

 

 

女が俺の怒声に肩を大きく揺らし、裕二に助けを求めるようにヤツを見上げる。

 

 

「ま、まぁ落ち着けよ……」

 

 

裕二が恐る恐る…と言った感じで、俺の両肩に手を置く。

 

 

ゾワワ!

 

 

瞬間、鳥肌が全身を駆け抜けたが。必死にそれを押し隠し、俺はまだ怒りを抑えられない『裕二の恋人』役に徹する。

 

 

「ちゃんとお前の口から説明しろよ?俺たちがどうゆう関係なのか!」

 

 

俺の怒鳴り声を聞いて、女が目を開いて俺と裕二の間を行ったり来たりさせている。

 

 

良し!王手だ!!

 

 

俺はほとんど“勝利”を確信していた。

 

 

「こいつは……お、俺の……単なるダチじゃなくて……そ、その…

 

 

“彼氏”!!」

 

 

最後の方は半ばヤケクソとばかり裕二が叫ぶ。

 

 

 

 

 

「え……彼氏………?」

 

 

 

 

 

たっぷり間を置いて女が、俺と裕二の間でまたも視線を行ったり来たり。

 

 

「そ♪俺たち付き合って二年のラブラブカップル❤

 

 

だって言うのに!!こいつが何を思ってか女と浮気なんかしやがって!」

 

 

ボキボキと指の関節を鳴らすと、女ではなく裕二の方が震えあがった。

 

 

マジで一発ぶん殴ってやりたい気分だったから、この関節鳴らしはリアルだ。

 

 

けれど

 

 

 

 

 

「嘘……」

 

 

 

 

そう、嘘だって言ってほしいのは俺本人。

 

 

 

 

 

 

「嘘よ!

 

 

だって裕二、あたしと寝たもん!!

 

 

 

 

 

ゲイの人って女はダメなんでしょ!?あたしを騙して追い払おうったって、そうはいかないわよ!!」

 

 

 

 

 

 

女が突如立ち上がり、そのときにテーブルに足をぶつけたのだろう。カップの中で琥珀色のコーヒーがゆらりと揺れて、カップもぐらりと傾く。

 

 

ガシャンっ!!

 

 

派手な音が聞こえてきて、それがフローリングにカップが落下したと気づいたのは

 

 

数秒遅れだった。

 

 

 

 

 

P.511


 

 

いや、実際遅れていたのは数秒なんかじゃなく、数日間…もっと言やぁ数か月かもしれない。

 

 

俺はこの女の力量を見誤ってたのかもしれない。

 

 

きっと裕二も―――

 

 

 

―――瑠華でさえも。

 

 

 

その遅れていた『時間』分だけ、『想い』が膨れ上がったんだ。

 

 

もっと早くに対処すべきだった、と気づいたが

 

 

 

―――遅かった。

 

 

 

 

だが、「遅かった」と一言で終わらせるつもりはない。

 

 

瑠華を巻き込んでまでの大勝負、大芝居なんだからな。負けてられないっつうの!

 

 

「あのさぁ、何をどう勘違いしてるのか分かんねぇけど、俺とこいつが付き合ってるのは事実だし。

 

 

横入りしたのはオタクの方でしょ?

 

 

確かにヤったのは裕二の落ち度だけど、酔っぱらってたワケだし。そんなんカウントされねぇだろ」

 

 

ぞんざいに言って肩を竦める俺。必死に“余裕”と言うものを漂わせているつもりだが……

 

 

「そんなの信じない!」

 

 

と、女の一点張り。

 

 

思い込みの激しい女ほど怖いものは無いと、このとき気づいた。

 

 

「ねぇ裕二。あたしのどこがいけないの?何が不満?

 

 

こんな“悪ふざけ”してまであたしと距離を置きたい“理由”を教えてよ」

 

 

女が裕二の足元へ素早くしゃがみ込み、裕二はその女から言葉通り逃げるようにソファを這いずり俺の元へと逃げてきた。

 

 

「だから……言ったろ?俺、ホントはゲイだって……

 

 

本命はこいつ。あのとき寝たのはほんの気まぐれだって……」

 

 

半分嘘で、後半部分は真実だ。

 

 

それでも女は諦めようとしない。

 

 

まぁ?ストーカーするぐらいだしな。並大抵の神経の持ち主だとは思わなかったが、こうまで思い込みが激しいと、どうすればいいのか分からない。

 

 

もういっそのこと何もかもぶちまけてしまった方がいいんじゃね?とさえ思ってたが、

 

 

「頼む!!啓人!!」

 

 

と裕二が真剣な目で訴えてくる。

 

 

そうまでして守りたいのかね

 

 

あのオトコ女を―――

 

 

 

 

 

まぁ

 

 

でも、俺が裕二の立場だったら同じことをするに違いない。

 

 

 

 

怒りの矛先が『俺』に向いている今はまだいい。

 

 

だがそれが最愛の人に向けられたら―――……

 

 

 

 

 

俺は今も尚抱えている問題、真咲のことをちらりと思い出した。

 

 

 

P.512


 

 

 

今は怒りの矛先が『俺に―――』……

 

 

「ねぇ裕二!この人に何か弱み握られたんでしょう!!見るからに陰険そうだもの!」

 

 

おい、女ああああ!!

 

 

プツン

 

 

俺の中で何かがキレたのは言うまでもない。

 

 

だぁれぇがっ!!『陰険』だっ!!!

 

 

こんな見るからに爽やかでイケメンで(←自分で言う?)害の無さそう(?)な男を目の前にして!(作者からの色々な突っ込みが入ったが)てか、女に関しては百戦錬磨な俺を目の前にして言う台詞か!?

 

 

俺が無言で立ち上がったのを機に

 

 

「け、啓人!ちょっとこっち来いっ!」

 

 

裕二に耳たぶ引っ張られて「いでっ!」と喚き声を上げながらも、俺は裕二に連れられるままキッチンに移動。

 

 

「お前の気持ちはよぉく分かる!『陰険』て言われて腹が立つ気持ちもな」

 

 

一度と言わず二度も他人の口から『陰険』呼ばわりされて、俺はもう爆発寸前。

 

 

だが落ち着け啓人。俺はあんな小娘に『陰険』呼ばわりされて黙って居られる程大人……じゃない。

 

 

「反撃してやる!絶対ぎゃふんと言わせてやるからな!」

 

 

「ぎゃふんって死語じゃん!てかどーするつもりだよ!

 

 

頼むよ!ここであの女に帰ってもらわないと、俺一生綾子を呼べねぇ」

 

 

「任せろ裕二。あの女は点けちゃいけない俺の芯に油をぶっ放った女だ。

 

 

俺が何とか追い払う。

 

 

 

 

俺の沽券に関わることだからな!」

 

 

「そんなに嫌だったんだな……『陰険』呼ばわりされたことが……」

 

 

裕二が大真面目に頷いて、俺から手を離す。

 

 

当たり前だろが!

 

 

村木じゃあるまいし、あいつと一緒にされたことだけがどうしても許せねぇんだよ!

 

 

 

 

 

 

P.513


 

 

俺はソファで一人背筋を正して、意地でも「帰りません」オーラを流している女の元に行くと、腕を組んで女を見下ろした。

 

 

それでも口を真一文字に結んで、俺と目を合わせようとしない女。

 

 

俺の真剣な睨みに動じないヤツは初めてだ。

 

 

佐々木やシロアリなんて俺がマジで睨めばすぐにビビって身を縮こませるってのに。

 

 

いや、啓人、落ち着け。相手は佐々木やシロアリじゃない。もしかして、シロアリより強敵かもしれない。

 

 

敵を知るにはまずリサーチからだ。

 

 

「どこに住んでるの?」

 

 

俺は見るからに似非クサイ笑顔を張り付けて女の元にしゃがみこむと、ローテーブルに肘をついて、にこにこ聞いた。ストーカー女は俺の急変した態度を不審に思ったのか、ちょっと口を開いたがすぐに言葉を飲み込むように口を閉ざす。

 

 

ちっ

 

 

押してダメなら引いて…なんて古典的なことを考えた俺がバカだ。

 

 

押してダメなら、ひたすら押すしかねぇな。

 

 

「確か仙台坂辺りだよね。ここからそんなに離れてないし」

 

 

これは勘でもなくハッタリでもなく、事前に裕二から仕入れた情報だ。

 

 

ニコニコ言うと、女がようやくこちらに振り返り

 

 

「……何で…そこまで知ってるの…?」と言いたげに眉をひそめた。

 

 

「言ったろ?俺と裕二の付き合いは長いって(まぁあながちハズレではない)」

 

 

「だからって付き合ってる証拠にならない」

 

 

一瞬だけ目が合ったものの、女はすぐにぷいと目を背ける。

 

 

「他にも知ってるぜ?品川に戸越公園、最近では目黒の方でも。あいつ浮気魔だから」

 

 

これは全部ホントのことだ。ただし綾子と付き合う前の話だがな。

 

 

「嘘!そんなの嘘よ!だって裕二『お前が好きだ』って言ったもん」

 

 

女が目を吊り上げる。

 

 

バカだな、裕二も。こんな面倒そうな女に嘘とは言え甘い言葉掛けるなんて。

 

 

面倒を……

 

 

呼ぶだけじゃねぇか!!くそったれ!

 

 

 

 

P.514


 

 

 

裕二は俺の背後でビクビクとしながら俺たちの会話を見守っている。

 

 

「そんなのアイツの常套句なの。分かんない?

 

 

俺だって毎日毎晩囁かれてるんだぜ?」

 

 

言っててゾワワと鳥肌が立ったが、それを悟られないようことさら何でも無いように繕う。

 

 

「あいつの浮気癖はもうびょーきとしか言えないね。俺の知ってる限り四人…?いや、五人ぐらい。

 

 

前も会社の女の子に目をつけてしつこく付きまとってたの。

 

 

あ、言っとくけどあいつ女もイケるから。

 

 

俺は無理だけどね」

 

 

出るわ、出るわ。口から嘘八百どころか八千だな。

 

 

背後で裕二が『ぅおを!啓人!凄いなお前!』とキラキラ羨望のまなざしであっつい視線を送ってくる。

 

 

ゲイじゃなくバイだと知ったら余計に女が図に乗るかもしれなかったが、女と寝たと言う事実がある以上

 

 

オトコじゃないとダメって言う説の信憑性が欠けるからな。

 

 

「……一緒に…住んでるの…?」

 

 

案の定、俺の罠に掛かって女が怪訝そうに聞いてきた。

 

 

「いや?でももーそろそろ同棲でもしようかと考え中。そしたらアイツの浮気癖が治るかもって、な」

 

 

「出会いは…?」

 

 

俺の順を追った質問に、またまたイレギュラーな質問を返され、

 

 

出会い!??んなもん考えてないっつーの!

 

 

今更になって慌てふためく俺たち。何せもっと早く決着が着くと思ってからな。

 

 

 

 

「……会社の同僚」

「ナンパ」

 

 

 

 

俺と裕二の言葉……(あ、因みに同僚節は俺の方ね)が重なり、二人して思わず顔を見合わせた。

 

 

食い違ってんじゃん!

 

 

女はしたり顔で俺と裕二を交互に眺め、「ふ~ん」と口の中で含みのある笑みを湛える。

 

 

「違っ!最初はナンパだったけど、後で同僚だったって…気づいて!」

 

 

裕二があたふたと手を動かし説明するも

 

 

「会社ってあの広尾の?神流グループの本社?」

 

 

と、これまた一歩も二歩もリードしてる女に、ズバリ聞かれて、今回ばかりは裕二のナンパ節に任せるんだった!と後悔。

 

 

 

 

 

 

P.515


 

 

 

ヤバイ!

 

 

ヤバイやばいヤバイ!俺が神流の跡取りだと知られたら最後。

 

 

俺、何やってんのヨ。自分の首絞めてるようなもんじゃん。

 

 

よぉく考えたら女は裕二を訪ねて“俺の”会社まで来てたし。

 

 

それからかれこれ一時間程、女からの質問責めに合った。

 

 

普段どこでデートしてるのか、会社にはカミングアウトしてるのか、二人はどうゆう仕事をしてどうゆう関わりがあるのか……と、ほとんど仕事と恋愛の関係性の話を聞いてきた。

 

 

それのどれも、俺たちはあやふやな答えを何とか返すのが精一杯。

 

 

だからか、女にその不自然さを突っ込まれる。

 

 

「帰りは一緒に帰るの?」

 

 

何度目かの質問にうんざりしながら、「まーたまにはね~」と、こちらもぞんざいに答えているときだった。

 

 

バタンっ!!

 

 

突如大きな……音?扉が閉まる音が聞こえて、俺たち三人は揃ってビクリと肩を揺らした。

 

 

「待ってください!綾子さん!」

 

 

瑠華の声が聞こえる。

 

 

へ!?何で……?

 

 

瑠華の慌てた声が聞こえるってことは………俺はちらりと裕二の方を見ると、裕二はこっちがビビる程顔色を蒼白にさせていた。

 

 

「待てないわよ!一体、何を隠してるって言うのよ!?

 

 

裕二!裕二、居るんでしょ!」

 

 

 

 

 

サイアク

 

 

 

 

 

まさかの綾子登場―――

 

 

これで修羅場からもう完全に逃げられない。

 

 

 

P.516


 

 

 

 

裕二が立ち上がるより早く、ドタバタと廊下を掛ける足音が聞こえ…

 

 

て言うか綾子……足音すらも女っぽくないな、お前は。裕二も何でこんなオトコ女好きになったのか、マジで分かんねー。

 

 

修羅場になることはこの時点で覚悟した。

 

 

こうなったらいかに“被害”を最小限にするか!だ。

 

 

バタンっ!

 

 

リビングのドアをまるで蹴破るかのような勢いで入ってきたのは、

 

 

当然綾子で―――

 

 

その後を必死に瑠華がついてきている状態だ。

 

 

何故こうなったのか、は今確認してる暇はない。

 

 

「どうして電話に出ないんですか!」

 

 

と、瑠華が口パクとジェスチャーを交えて自身の白い携帯をふりふり。

 

 

綾子たちがインターホンを押さずにどうやって入ってきたのかは分かる。きっと裕二のヤツが綾子に合鍵でも渡してたんだろう。

 

 

リビングの入口に突っ立った綾子は

 

 

「啓人……やっぱりあんた裕二のところに居たのね」と座ったままの俺を軽く睨む。

 

 

俺は綾子が何か言い出す前に、謝る素振りで何とか苦笑を浮かべる。言い訳は一切聞き入れてくれなさそうだし、却って言い訳すればするほど悪い方向へ行きそうだったから、認める意味でも。

 

 

次いで裕二を睨み、そして―――床に座り込んだ見知らぬ女を見て綾子が怪訝そうに表情を歪めた。

 

 

 

 

 

「誰?」

 

 

 

 

 

当然の質問だよな。

 

 

綾子の手から握っていたであろう、鍵がスルリと抜けて

 

 

 

 

 

床に落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

P.517


 

 

 

品の良いこげ茶のブランドもののキーホルダーが付けられた鍵は、無機質なフローリングに良く響いた。

 

 

瑠華が慌ててそれを拾い上げ、後ろに隠す。

 

 

「誰……?」

 

 

当然ながら今度はストーカー女の方で。

 

 

綾子と……隣に並んだ瑠華の姿を怪訝そうに見上げている。

 

 

だがすぐに事情を察したのだろう。

 

 

 

 

「裕二の……ホントの

 

 

 

 

恋人?」

 

 

 

 

 

女の第六感ってのは何でこーゆうときに、しかも的確に当たるのかな。

 

 

いかにも仲良くしてますアピールまでしたのに、俺を恋人として絶対に認めなかったストーカー女。なのに綾子のことは本当の恋人だとすぐに見抜いた。

 

 

「ホント……?恋人……?

 

 

どうゆう…こと?」

 

 

乗り込んできたくせに、イマイチ事情が掴めていないのか綾子が口の中で復唱して額に手を置く。

 

 

まぁ戸惑うのは分かる。裕二も俺も、更には瑠華まで―――綾子には嘘をついてて、独りだけ状況を呑み込めないってのもな。

 

 

くそっ!どうすればいいのか!

 

 

短い間で考えていると、突如瑠華が手を挙げた。

 

 

 

 

 

「あの、何か勘違いなさっておいでですけど、麻野さ……いいえ、裕二さんの恋人、

 

 

私ですから」

 

 

 

 

 

 

瑠華が名乗り出て、土壇場に来てのこのアドリブには

 

 

流石の裕二や綾子も目を点にして、俺に至っては開いた口が塞がらない。

 

 

瑠華っ!!!

 

 

 

 

 

何てことを――――!!!!

 

 

 

 

P.518


 

 

 

「裕二の恋人……?」ストーカー女が怪訝そうに瑠華を見やり

 

 

「証拠ならあります。これ麻……裕二さんが私にくださった合鍵です」

 

 

と、さっき綾子から取り上げた鍵を指でつまみ、ゆらゆらと揺らす。

 

 

「……じゃぁ…やっぱり裕二の恋人って言うあなたは騙されてたの……?それとも最初から全部演技…?

 

 

嘘だったの?あたしを騙したの!?」

 

 

女が怪訝そうに俺の方へ振り返り、

 

 

「はぁ!?啓人、あんたが、裕二の恋人!?てか誰よ、この女!」

 

 

せっかく瑠華が着いた嘘を台無しにするなよなぁ綾子ぉ。

 

 

「そっちこそ誰よ!!裕二はあたしの彼氏よ!」とストーカー女。

 

 

もう、修羅場どころかこれじゃ地獄絵図としか言えない。

 

 

誰かの血を見るのが簡単に想像できた。

 

 

「綾子、落ち着けって」

 

 

何とか宥めるように俺は立ち上がろうとしたが、綾子は表情を引きつらせて一歩後退した。

 

 

その節に背後にいた瑠華と軽くぶつかり

 

 

「柏木さん……あなたも知ってた……の?」

 

 

綾子が瑠華を見る目は不信感に満ちていた。

 

 

俺がとやかく言われるのは良い。綾子に何と言われようと、亀裂が入ろうと気にすることじゃない。

 

 

だけど瑠華は―――

 

 

綾子のことを本当に思って、最後の最後までしぶっていたのだ。

 

 

瑠華まで俺たちの一味扱いされるのはたまらなく嫌だった。

 

 

 

 

 

「もう辞めよう。

 

 

裕二、自分のツケは自分で払え」

 

 

 

 

 

 

俺は腰を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.519


 

 

 

「ツケ……ってどうゆう……こと…?」

 

 

ストーカー女が声を震わせる。両手で塞いだ口から嗚咽さえ漏れてくる。

 

 

ここに来てようやく事態を少しだけ把握したようだ。

 

 

裕二は覚悟を決めた

 

 

と言った感じで額に掛かった前髪をぐしゃりと掻き揚げ

 

 

 

 

 

「俺はただ

 

 

―――大切な人を守りたかっただけだ」

 

 

 

 

 

そう一言呟いた。

 

 

俺だってそうだ。

 

 

ただ、大切な人を―――

 

 

 

 

 

柏木 瑠華を守りたいだけだ。

 

 

 

 

裕二が招いた事態を瑠華が背負うのは道理に適ってないし、背負い込む義理もない。

 

 

「つまりあんたはこのどーしよーもない男に遊ばれただけってこと。

 

 

一晩だけの関係だよ。それに嘘偽りはない」

 

 

俺の言葉なんて今更この女に効力をもたらせるかどうか謎だったが、女は涙の溜まった目を目一杯開いて裕二を

 

 

ただ、裕二を見つめる。

 

 

偽りだらけのこの状況で、真実言えることは

 

 

 

この女は本当に裕二のことを

 

 

 

 

 

 

好いていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.520


 

 

しんと静まり返った妙な空間の中、俺は瑠華へと足のつま先を向けた。

 

 

「帰ろ。あとはあいつらが何とかするだろ」と言う意味で瑠華の手を取ろうとしたが、

 

 

その手は聞き覚えのある着信メロディによって阻まれた。

 

 

~♪

 

 

ムーンリバー

 

 

瑠華のケータイに着信を報せるメロディが流れて、瑠華はケータイのサブディスプレイを見て目を開いた。

 

 

瑠華に動揺を与える人物が誰なのか、言わなくても分かる……

 

 

 

 

 

「心音からです」

 

 

 

 

 

……筈だったけど!

 

 

「え!!心音ちゃん!?」

 

 

マックスじゃなかったことにちょっとほっとしたものの、すぐさま違う焦りが発生。

 

 

何で!?今頃飛行機の中じゃ!!?

 

 

思いっきり動揺して慌ててタグ・ホイヤーに目を落とすと時間は17:37となっていて俺は額に手を当てた。

 

 

瑠華は確か

 

 

『心音はブリティッシュエアの4605便に乗るつもりです。成田への到着時間は明日の16時25分。

 

 

大抵遅れるので30分~1時間誤差を見ておいてください』

 

 

て言ってた。

 

 

誤差を計算しても、流石に空港に着いてるな。

 

 

「ココネ……て誰よ。“また”違う女?」と綾子が思いっきり不審そうに俺にガン飛ばす。

 

 

「ちげぇって!」まぁ女には変わりないが。

 

 

「心音は私の親友です。NYでの」と瑠華が機械的な説明をして、

 

 

「へぇ柏木さんて友達居たんだ……」と妙なところで感心している裕二。

 

 

おぃ!!!裕二!お前、ふつーに失礼な発言だぞ!!

 

 

「とにかく出ないと」俺は瑠華をせっついて、瑠華はぎこちなく電話口に出た。

 

 

「Hi.」

 

 

次から次へと厄介事がーーー!!

 

 

今日は厄日に違いない!!

 

 

 

 

 

P.521


 

 

瑠華は日本語と、時折英語を交えて心音ちゃんと電話をしている。

 

 

日本語も英語も早口だし、この状況を考慮してか、声を潜めているから内容まで分からない。

 

 

後に残されたこのびみょーーー過ぎるメンバーたち。自分から『電話に出て』て指示したくせに、早速後悔している俺。

 

 

心音ちゃんが来るのは分かり切っていたし、瑠華の言う通り『心音にはしばらく空港に居てもらいます。何せ急だしこちらの都合もあるので、子供じゃないし、いざとなればホテルでもとってもらえば』と言う言葉を優先させるべきだった。

 

 

「んで?どーすんのお前」

 

 

俺は収集の着かないこの場を何とかまとめたくて、裕二を睨んだ。

 

 

元はと言えばこいつが巻いた種だからな!

 

 

片や泣きじゃくっている女。片や裕二が浮気をしたと思いこんで目を吊り上げて今にも怒鳴りそうな気の強い女。

 

 

言わなくても分かるよな?前者がストーカー女で、後者が綾子だ。

 

 

 

 

 

「悪いけど……俺、大切にしたい人が居るから。

 

 

本当に

 

 

 

 

 

ごめん」

 

 

 

 

 

さすがに不憫だと思ったのか、裕二は極力声を押さえて、泣いてるストーカー女の肩に手を置く。

 

 

「じゃぁ何で最初からそう言ってくれないのよ!」

 

 

女が金切声を挙げて、裕二の手を払う。

 

 

それはまぁ……思い込みの激しい女だから本命(綾子)に対して何かしでかすと思ったから言うに言えなかったんだよ。

 

 

とは言えない。

 

 

「ねぇ…裕二が浮気……じゃなさそうね…この感じ…」

 

 

と、ここにきて少し頭が冷えたのか、それとも裕二を知り尽くしてるのか、綾子が突如として小声で俺に聞いてくる。

 

 

「最初からそうじゃないって言ってンだろ」

 

 

俺は力なく答えた。

 

 

 

P.522


 

 

俺たちの会話を耳に入れたのか、瑠華が時折心配そうにこちらを気にしている。

 

 

心音ちゃんの方もちょっと話が難航している模様。瑠華は少しばかり声を荒げていた。

 

 

「Wait!

 

 

Wait wait wait!

(ちょっと待って!)」

 

 

その間にも

 

 

「あたしが裕二の本命なのよ!」と女は泣きじゃくり

 

 

「はぁ!?何言ってンの!?」と応戦状態の綾子。

 

 

三人の女の声がリビングを満たし、こうゆう状況じゃなきゃ女三人に囲まれて幸せな状況だって言うのに何一つ楽しくない!

 

 

やがてストーカー女と綾子のやりとりを気にしていた瑠華が

 

 

「Shut up!

 

 

 

Come on!

(いい加減にして!)」

 

 

と、明らかにこちらに向けて怒鳴り鳴り声を挙げ、一同が驚いたように目を瞠った。

 

 

久しぶりに聞いたぜ、本場もんの「シャラップ!」

 

 

瑠華……心音ちゃんと何があったって言うんだよ。いや…心音ちゃんじゃないか、こっちの方だよな、きっと…

 

 

瑠華は流れるように携帯を耳から話すと、まだ受話口から漏れ聞こえている心音ちゃんの声を無視して強引に通話を切った。

 

 

ストーカー女以外の誰もが息を呑んだ。

 

 

瑠華がキレる寸前のこの瞬間を目の当たりにした俺らは次に彼女がどう出るか、大体の予想が着く。

 

 

 

 

瑠華は何を思ったのかつかつかまっすぐこちらに向かってくる。

 

 

「はい!すみませんでしたぁ!」

 

 

もういっそ土下座でもする勢いで謝った俺をあっさりスルーしてその足取りを裕二に向ける瑠華。

 

 

何をするのか何を言うのかちょっとドキドキした面持ちで見守っていると

 

 

瑠華は突然裕二の頬を

 

 

 

 

 

平手打ちにしたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.523


 

 

バシンっ!

 

 

沈黙が支配するこの空間の中で裕二の頬を打つその渇いた音だけが妙に大きく響いた。

 

 

びっ!

 

くりして声も出せない俺。

 

 

いや、もっと驚いているのは裕二自身だ。

 

 

あまりに突然の出来事で、状況が掴めていないのか打たれた頬を撫でさすりながら呆然と瑠華を見やる。

 

 

「これは綾子さんの分」

 

 

バシン!

 

 

そしてもう一度平手打ちが飛んできて、裕二の頬を直撃。

 

 

いっ……たそー……

 

 

てか裕二!俺だって瑠華からまだビンタを食らってないってのに、何二回も受けてるんだよ!

 

 

って、俺、ここまで来てもどM!!?

 

 

「これはそこの彼女の分」

 

 

瑠華はストーカー女を見下ろし、最後にもう一度、間を開けず裕二の頬を打った。

 

 

 

 

「これは、あなたの身勝手な行動で、巻き込んだ

 

 

 

啓の分です」

 

 

 

 

 

 

瑠華―――……

 

 

 

 

P.524


 

 

 

 

 

 

 

「あなたは最低です」

 

 

 

 

 

瑠華は三回もぶたれてすっかり赤くなった両頬を撫でさすりながら唖然としている裕二を冷たく見据え、たった一言言い放った。

 

 

その横顔をちらりと見たが、温度の感じられない冷たい瞳が裕二をじっと見つめている。

 

 

裕二は瑠華に打たれたことに反撃するわけではなく、ただただ呆然と瑠華を見やった。

 

 

裕二が幾ら理不尽なことをされても言われても女に手を挙げるヤツじゃないことは分かってはいたが、もし…瑠華に手を出そうものならこいつの腕を折るぐらいのことはやってのけた。

 

 

そのための準備もしていたが、それは杞憂に終わった。

 

 

「分かってる」と裕二は言いたげだったが、言葉は出てこなかったようだ。

 

 

再び沈黙が降りてきて、だが最初に言葉を切ったのはストーカー女だった。

 

 

「な……何するんですか!酷いわ!」

 

 

こんな状況でも攻撃された裕二の楯になろうと、裕二の前に進み出て両腕を上げる。

 

 

綾子は―――

 

 

ただ瑠華と、裕二を交互に見やっているだけだった。

 

 

「いや、悪いのは俺なんだ……だから柏木さんにぶたれても文句言えない」弱々しく、だがはっきりと裕二が呟く。

 

 

「でも裕二……」とストーカー女は裕二のことをひたすら心配している。

 

 

激しい思い込みや、迷惑な行為さえなければすっげぇいい女に違いないし、こんな一途に思われてちょっと羨ましかったりもするが。

 

 

でも、間違って居ることを正すと言うのも

 

 

愛だと思う。

 

 

 

 

 

 

瑠華の突如の暴挙に何も言わない綾子のように。

 

 

 

また、自らの手を挙げてまで正そうとする瑠華のように―――

 

 

 

 

 

 

P.525


 

 

 

「この際だからはっきり言います。あなたは遊ばれていただけ。

 

 

麻野さんの一晩のお相手に過ぎません」

 

 

瑠華はズバリ言い切った。

 

 

まぁ間違っちゃいないが……

 

 

「……違う…」ストーカー女が俯きながら弱々しく言葉を吐く。

 

 

「麻野さんがあなたに何を言ったのかは存じ上げませんが、そこに何の愛情もないのです」

 

 

瑠華の言葉にストーカー女の目にみるみる内に涙が溜まった。

 

 

「……違うもん」

 

 

「いい加減目を覚ましなさい。

 

 

あなたも酷いことをした男をひっぱたくなり、水を掛けるなりお好きにどうぞ。

 

 

 

 

 

でも、こんな人の為にあなたが泣くのは間違っています」

 

 

ストーカー女は瑠華の言葉を耳に入れて、裕二を不安そうに仰ぐ。

 

 

「ねぇ……この人の言ってること、嘘……だよね。

 

 

あたし、裕二に『好き』って言われたのよ。あれも全部嘘だったの……?」

 

 

「嘘……って言うかその場のノリみたいなものだ。

 

 

柏木さんの言う通り、君とは一晩の付き合いで流れで寝ただけ。

 

 

『好き』って言ったのも“あのとき”の俺には挨拶みたいなもので―――」

 

 

ごめん

 

 

裕二の最後の言葉は彼女に届いただろうか。

 

 

綾子は腕を組み、大きなため息を吐いた。

 

 

「そうゆう男よ、こいつは。昔は派手に遊んでたの」

 

 

「………嘘よ……だって…好きって言ってくれた…」

 

 

とストーカー女は裕二が吐いた汚い嘘に、どんな状況でも縋ろうとする。

 

 

 

 

 

「でも俺はたった一人大切にしたい人を見つけた。

 

 

彼女のことを大切にしたいし、一生をかけて守り抜きたいと思う。

 

 

彼女と出会って、本当の意味で“好き”だと言うのが何なのか気付かされた。

 

 

 

 

 

悪いケド、君の気持ちには応えられない」

 

 

 

 

 

裕二の告白を聞いて、女の目から大粒の涙が零れ落ちた。

 

 

「Listen to me.

(いい?良く聞いて?)」

 

 

瑠華は女の両肩に手を置き、ことさらゆっくり言葉を紡ぎ出した。

 

 

 

「麻野さんは確かに過去はかなりの遊び人でした。でもたった一人、大切な人を見つけられた。

 

 

たくさん女性と関係を結んで、でも真実の愛を見つけた。

 

 

こんなクズ男でも出来ること、あなたが出来ない筈はありません。

 

 

 

あなたは何より

 

 

 

 

誰よりも愛情深い。

 

 

 

誰かを愛すること、それはとても大切でとても素晴らしいことだと思います。

 

 

 

 

だからあなたが悪いわけじゃない。

 

 

 

 

でも……だからこそ、その愛情を自分だけに向けてくれる人に注ぐべきだと思います」

 

 

 

 

 

 

 

 

P.526


 

 

 

女が流した涙が頬を伝わり顎の先へと流れ落ちた。

 

 

「あたし……あたしはそれでも裕二が……」

 

 

ストーカー女は瑠華に諭されても考えを覆す気配を見せない。

 

 

瑠華の説得力ある言葉にも反応しないって、相当だな。

 

 

流石の瑠華もちょっと「お手上げ」と言った感じでこちらをちらりと見てくる。助けを求められている、と感じた。俺は裕二と綾子に後を引き継ぐつもりだったが、瑠華は瑠華で関わってしまった以上、この女を放っていけないんだろう。

 

 

俺は大きくため息を吐き

 

 

「君がやってること、思ってることは

 

 

『恋愛』じゃない。

 

 

それは『依存』だ。

 

 

『依存』は悪いことじゃないし、むしろそこまで盲目に好きになれる何かがあることは羨ましいと思う。

 

 

でも

 

 

裕二が君の“迷惑行為”にうんざりして、今付き合ってる女と切れて、君の元に行ったとしよう。それで君は満足か?」

 

 

はっきりと『迷惑行為』と言う言葉を出すときはさすがに戸惑ったが、この女にはちょっとやそっとの言葉では通用しないと分かったから言った。

 

 

案の定、女が涙を溜めたままの目でゆっくりと裕二をふり仰ぎ

 

 

「迷惑行為……?あたしが裕二に迷惑を……?」

 

 

ここになってようやく動揺を示した。

 

 

気付いてなかったことに驚いたが、気づいてたらこんな行動取らないだろう。

 

 

瑠華はその一瞬の表情を見逃さなかったのだろう。

 

 

「そうです。あなたも近年横行している“ストーカー規制法”と言う言葉をご存じでしょう?」

 

 

裕二の代わりに畳みかけるように瑠華が答えた。

 

 

唯一の突破口を見つけた。と言った感じだ。

 

 

「ストーカー……あ…あたしが……?裕二のストーカーだって言うの……?」女は聞き慣れない言葉を耳にしたような顏をしてしきりにまばたきを繰り返す。

 

 

「あなたが行った数々の迷惑行為はストーカー規制法に違反するものです。麻野さんのマンションに常識では考えられない時間帯に訪れてはインターホンを押し続ける。執拗なメールをする。

 

 

さらには会社まで押しかけてきて…このことに関しましては多くの職場の人々が目撃しています」

 

 

「そんなことまで……?」

 

 

何も知らない綾子が唖然として、こちらもまばたきを繰り返している。

 

 

「あなたがそれでもなお、その行為がストーカーではないと仰るのなら、こちらも手立てがあります。

 

 

メールも、もちろん麻野さんの携帯に残っている筈だし、インターホンに関しましてはマンションの管理会社で記録を閲覧することも可能です。

 

 

それらの証拠を警察に持って行って、場合によっては裁判を起こすことも可能です。

 

 

ストーカー行為をした者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金が課せられるのですよ。

 

 

 

 

あなたがそこまで“好き”になったこの男は、それだけのリスクを犯してまで

 

 

 

 

 

欲しいものなのでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

P.527<→次へ>