Autumnal

Side A(4th)


 

 

―――私が男を知ったのは私が十二歳のときだった。

 

 

私は実の父親を知らない。母は私が幼い頃に亡くなった。

 

 

朧に覚えている記憶は―――大層美しい人だった…と言うことだ。

 

 

まるで黒曜石のように黒い髪と瞳。透き通るように白い肌。

 

 

男はみな母親に恋をすると言うが、あながち外れてはいない。

 

 

その美しい人は―――私が五歳の頃、病気でこの世を去った。

 

 

世に言う『私生児』だった私は、それまで母の愛情を一心に受けて育った。

 

 

母は寝る暇もなく働き、私と自分の生活を支えてきた。

 

 

もともと病弱だった母親は無理がたたったのだろう、突然倒れてそのまま―――還らぬ人となった。

 

 

その後、私は施設に入れられた。そして里親に引き取られたのだ。

 

 

もう一度言う。

 

 

私が男を知ったのは

 

 

 

―――十二のときだった。

 

 

 

裕福だった里親の『秋矢』家。養父は貿易商の豪商で、養母は見るからにお嬢様育ちのおっとりと少々世間知らずだったが…こちらも美しい人だった。

 

 

年若い夫婦に子はおらず……後に知ったのだが、養母の方に子が作れない原因があったとか。

 

 

しかしそのような話は私の過去に何の影響もない。

 

 

私は裕福だった秋矢家で何不自由なく育った。

 

 

養父母たちは私が何も言わずとも、あれこれ買え与えくれたし、家にあった立派なグランドピアノをお遊びで弾いていたら、養母は才能があると言って有名な先生のレッスンを受けさせてくれた。

 

 

その後才能が開花したのかどうかはさておき、私は世に言う『お金持ちぼっちゃん』という感じで育った。

 

 

ここまでの話だけなら私の幼少期もそれなりに幸せだったのかもしれない。

 

 

しかし問題は養父だ。

 

 

養父の下品な舐めるような視線はときどき感じていた。それは私が成長すると次第に多くなっていった気がするが、しかし父親と言うものを知らなかった私は父親とはこういうものなのだ、と納得をせざるを得なかった。

 

 

何より彼らの庇護なしで生活していける年齢でなかったのだ。

 

 

少しばかり気味は悪かったがそれに目を瞑るほか方法はなかった。

 

 

そしてその夜は来た―――

 

 

私が十二の誕生日を迎えたその夜だ。

 

 

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私は与えられた自室で一人マンガ本を読んでいた。小学校のクラスメイトが誕生日プレゼントにくれたのだ。ピアノ意外、夢中になれるものといえばこの頃はもっぱら小説や漫画本だった。

 

 

深夜も0時過ぎだ。

 

 

ベッドに灯したナイトランプの光だけをたよりに熱心に読みふけっていた。

 

 

その頃、夜遅くまで本やマンガを読んでいることが見つかると養母にこっぴどくしかられたのだ。私は廊下を歩く足音に注意深く耳を澄ましながら、それでもマンガを読んでいた。

 

 

そこへ

 

 

ぺた……ぺた…ぺた……

 

 

裸足の足裏が廊下のフローリングを叩くかすかな足音が聞こえて、私は慌ててライトを消しマンガ本を枕の下に隠すと布団にもぐりこんだ。

 

 

その足音は私の部屋を通過すると思いきや、私の部屋の前でぴたりと止まった。

 

 

私は「おや?」という具合に首を傾げ、同時に緊張が高まった。

 

 

またマンガを読んでいたことに気づかれたら怒られると思ったからだ。

 

 

ドキドキと鳴る心臓を押さえ、私はひたすらに足音が遠ざかるのを待った。

 

 

しかし足音は遠ざかるどころか、私の部屋に入ってきた。

 

 

いよいよ怒られるのだと思って観念して布団から顔を出すと、そこに居たのは『こんな遅い時間までマンガ読んで!明日起きれなかったらどうするの?』と角を生やした養母ではなく

 

 

見たこともない……ぎらついた目で私を見下ろす

 

 

 

 

 

養父の姿だった。

 

 

 

 

 

勘違いしないので欲しいのだが、養母は私に優しかったが人並みに母親業をこなしていた。私を叱るのも、ごく当たり前の…どの家庭でもある光景で、今なら自分が悪いと十分理解もできる。

 

 

話はずれたが、私は怒った養母ではなかったことにほっとしたものの、どこか異様な雰囲気の養父の姿に何故だか危険を感じた。

 

 

「ごめん……うるさかった?もう寝るよ」

 

 

先手必勝とばかりに謝って布団に潜り込もうとすると、養父は何を思ったのか私の上にのしかかってきた。

 

 

 

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またいつもの冗談かと思った。

 

 

私たち家族は血は繋がっていないとは言え、それなりに家族“ごっこ”を楽しんでいた。養母は料理がうまくおやつには手の込んだ手作りケーキなんかを作ってくれた。

 

 

養父とはキャッチボールもした。私がエラーすると「ドンマイ、徹。次だ」と言って私の頭を優しく撫でてくれた。そのときはあの意味深なギラついた目つきじゃなかったし、私も褒められたり慰められたりすると、ちょっと嬉しかった。

 

 

絵に描いたような幸せな家庭。

 

 

ときに冗談でじゃれあって抱き付いたり、抱き合ったり、ことさら私をかわいがってくれた養母は私の額によくキスをした。

 

 

十二になった私はそれが若干鬱陶しいのと恥ずかしいので、複雑な気分だったが何せ私を引き取ってくれた里親だ。嫌われたくない一心で私は養母が望む笑顔を浮かべた。

 

 

養父の行動は養母と同じ―――親が子供にじゃれているのと同じ種類のものだと考えたが

 

 

 

 

 

 

違った。

 

 

 

 

 

 

「徹。お前は何て美しいんだ」

 

 

養父は聞いたことのない艶めいた声で私の耳元で囁き、布団の中に手を入れると私の体をまさぐってきた。

 

 

骨ばったその手が私のあちこちを撫で回し、そのいやらしい手つきに「じゃれている」という感覚はもはや私の中から消え失せ、

 

 

私はただただ驚愕に目を開いた。

 

 

ベッドの上で養父を見ると

 

 

養父は私の頬にそっと手を伸ばし

 

 

「その眼。何て美しい―――まるで宝石のようだ……いや、どんな宝石よりもお前の瞳にかなう宝石なんてない。この世のどんな宝石もお前の瞳と比較したらただの石ころに過ぎない」

 

 

ぞっとするような声で囁いた。

 

 

きれいだと言われた目が……養父に見られていると思うと急に嫌悪感を抱き、ぎゅっと目を閉じると

 

 

養父の手は私のパジャマの隙間から侵入し、直に私の肌に触れてきた。

 

 

「父さん……!」

 

 

思わず起き上がろうとすると、

 

 

「徹……徹は良い子だから声を出さないでおくれ?じゃないとミツコ(養母の名前)に気づかれてしまう。徹だって嫌だろう?」

 

 

と、口を塞ごうと養父の手が伸びてきた。それから逃れるように顔を避け

 

 

「何言って……!」

 

 

語尾は、養父の唇に吸い取られた。

 

 

 

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生まれてはじめての口づけ。

 

 

何が何だか分からず目を瞬いていると、養父の手は私の胸の突起を探りあて、つまんだり擦ったり。

 

 

「何!やめろよ!!」私が養父の手から必死に逃れようとすると養父はいとも簡単に私の両腕を拘束し、

 

 

「ああ、可愛いなぁ徹は」

 

 

と、低く笑う。

 

 

「やめっ!」

 

 

必死の抵抗も虚しく、養父は私のパジャマのズボンに手を掛けた。そのまま下着ごとずり下ろされ、露わになった私のものを見ると養父は微笑を浮かべ

 

 

「徹は本当に可愛いよ」と言い、私の中心を包むと乱暴にしごき、

 

 

気持ち悪いのに、言いようのないはじめての刺激に抵抗らしい抵抗などできず、私はあっけなく……生まれてはじめての射精をした。

 

 

「あ…………」

 

 

恥ずかしさに死んでしまいたいと思ったが、養父は気にしていないようで私の放った体液を私の後ろの入口にそっと塗ると、今度は私とは形も体積もまるきり違う彼の中心を取り出した。

 

 

ごくり、と私の喉が鳴り

 

 

これから何をされるのか分からなかったが、本能的に危険を察知して私はベッドから転げ落ちるように降りようとした。

 

 

しかし背後からがっしりと養父に腰を掴まれ、

 

 

「暴れると余計に痛くなる。大人しくしてたらすぐに済むよ」

 

 

と諭すように言って腰をそっと撫でる。

 

 

私は言葉など出す余裕などなく、逃げたい一心だったが怖くて体が動かなかった。

 

 

その後に待っていたのは身を裂くような激痛だ。養父は私を後ろから犯した。

 

 

何度も悲鳴を挙げそうになったが、そうしなかったのは一匙のプライドが残っていたから。

 

 

こんな

 

 

こんな風に犯されたことを、あの優しい養母に知られたくない。

 

 

その一心で私はその場を耐え忍び、その場をやり過ごした。

 

 

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だが私が養父に抱かれたのはそれが最後ではなかった。

 

 

その日から養父は頻繁に私の部屋に来て、私を抱いた。

 

 

その度に苦痛がやってくる。それと同時に私の中からひとつづつ何かが零れ落ちていく気がした。

 

 

そうして何もなくなった頃―――

 

 

唐突にチャンスはやってきた。

 

 

その日は珍しく養父が酔っぱらって居た。酒はあまり強いほうではなく、家でもほとんどアルコールを口に付けたことのない養父は珍しく、貰いもののお飾りだったブランデーを一人で半分ほど開け

 

 

リビングのソファで泥酔し眠っていた。

 

 

私の中で何かが囁いた。

 

 

 

 

 

 

 

消シテシマエ

 

 

 

スベテヲ

 

 

 

 

 

今コソ自由ヲ手ニ入レル時

 

 

 

 

 

壊セ

 

 

 

 

 

 

私は養父と共にした夜に一つずつ何かを失っていったが、同時に一つずつ何かを手にした。

 

 

それは

 

 

嫌悪、憎悪、殺意――――と言った醜く恐ろしい感情だ。

 

 

私はそれらの感情を抱きながらキッチンに向かい、システムキッチンの引き出しを開けるとその中からマッチを取り出した。

 

 

このところガスコンロの調子が良くない、とぼやいていた母が常備していたものだ。もう一日遅ければ、ガス屋が来てコンロを直して行ったが、生憎私の殺意が絶頂に達したのが一日早かった。

 

 

それからありったけのサラダオイルをかき集め、ついでに飾ってあった全てのアルコール類も養父の周りに撒いた。

 

 

幸いなことに養母は熟睡していた。このところ寝付きが悪く若干不眠症の気があった養母はそのころ医者に掛かっていて睡眠薬を処方してもらっていたのだ。

 

 

その薬を服用していたおかげで私の動きは察知されなかった。

 

 

私は空になった最後のサラダオイルの空を投げ捨て、いつの間にか私の足元にはオイルのパックがいくつも転がっていた。

 

 

最後にマッチで火を点けると、躊躇なく

 

 

 

 

 

オイルに投げ捨てた。

 

 

 

 

 

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火はすぐに炎の海となって部屋を包み、私は急いでその場を離れると二階の寝室で眠っていた養母を叩き起こした。

 

 

「母さん!!火事だっ!」

 

 

養母は私に起こされ驚いたものの、すぐに一階リビングから立ち昇る煙に気づいて目を開いた。

 

 

その後私は―――養父の名前を叫び続ける養母と二人、家を飛び出し

 

 

寸での差で、炎は絵に描いたようなきれいな一軒家を包み込み、消防車や救急車、パトカーが何十台もやってくる、と言う大げさなものになった。

 

 

その後、警察による簡単な聴取が行われたが、私も母も特に疑われず出火の原因は養父の寝タバコと言うことで片付けられた。

 

 

それは私が十三になる少し前のことだった。

 

 

 

私は今でも覚えている。

 

 

あの豪奢だった家が、養父との悪夢が続いたあの呪われた場所が紅く燃えていくその美しいさまを―――

 

 

唯一の心残りはあの立派なグランドピアノも燃えてしまったことだけだ。

 

 

炎が家を包み、私の汚い過去を全て燃やしてくれるかのように

 

 

火は一晩中吠えるように燃え上がり、私の目の裏にその紅い色は焼き付いた。

 

 

 

―――――

 

 

――

 

 

はっと目を覚ます。

 

 

見慣れた天井が視界に飛び込んできてまばたきをすると、そこが私に与えられた部屋だと気づいた。

 

 

私は―――夢を見ていたのか……

 

 

それにしても……なんて遠い記憶……

 

 

いや、あの事件を忘れることなんてできやしないのだ。

 

 

 

 

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何だか無性に酒が飲みたかった。私は部屋のチェストに飾られているブランデーを手にして同じように並べてあったブランデーグラスに琥珀色の液体を注ぎ入れる。

 

 

養父の家ではそれはお飾りに過ぎなかったが、生憎血の繋がらない私はざるだ。

 

 

香りも味も楽しむつもりはなかった。

 

 

ストレートでそれを一気に飲み干すと、タバコを口に咥えた。

 

 

安っぽいライターで火を点けるがカチカチというフリンジのホイルが回る音だけが虚しく空回り。

 

 

仕方なしに手近にあったマッチを手繰り寄せ、一つ擦ると

 

 

マッチの先に炎が浮かび上がった。

 

 

しばらくそのマッチの先を眺めていると、惹きこまれそうなぐらいそのマッチに目を奪われていた。

 

 

紅く燃え上がる炎。

 

 

炎の塊は魂を宿したかのようにゆらゆらと揺れ、やがて大きくなっていく。

 

 

指のすぐ近くまで炎が浸透してきて、

 

 

「熱っ……」私は慌ててそのマッチを振って火を消した。

 

 

何をやっているのだ、自分は……急にバカバカしくなってタバコを吸う気分でもなくなった。

 

 

私はパジャマの上にガウンを羽織ると、部屋を出た。

 

 

特に何か目的があったわけではない。

 

 

少し―――風に当たりたかった。

 

 

部屋のバルコニーに通じる窓を開ければ風を感じることができるが、そうしなかったのは、あの部屋に居ると何故か嫌な記憶を思い出しそうだったから。

 

 

部屋から出て少し廊下を歩く。広間を通り越して、図書館みたいになっている書斎を通り過ぎ、まるで引き込まれるようにその場所に向かった。

 

 

最初から目的があったわけではないのに。

 

 

まるで最初からその場所へ誘われているかのように―――

 

 

鍵の掛かっていない大きな両開きの扉を開くと、

 

 

白い部屋の中央に黒い大きなグランドピアノが置いてあった。

 

 

 

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ピアノはマリアさまがたしなまれる。その腕は結構なもので、私も何度か彼女の演奏を聴いたことがある。

 

 

鍵盤の蓋をそっと持ち上げ、白黒の鍵盤をなぞる。一つ押すと

 

 

調律がしっかりなされたきれいな音が響いた。

 

 

この部屋は完全とは言い難いが防音が施されている。

 

 

私は両手を鍵盤に置き、指を走らせた。

 

 

十年以上も弾いていないとは言え、感覚は衰えていることなく私は覚えのあるショパンの曲を何曲か弾くことができた。

 

 

その後は何だか夢中だった。

 

 

即興で作ったメロディを力強く叩き出し、でたらめのメロディーを口ずさみ

 

 

とにかく私はピアノを弾く以外のことを考えたくなく

 

 

無我夢中で鍵盤をたたいていた。

 

 

何曲目かの……名も与えられていない曲が終わると

 

 

パチ……パチパチパチ……小さな拍手が聞こえてきて振り向くと、目を丸めたミスター来栖がその場で拍手を送っていた。

 

 

 

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集中していた―――とは言え、彼の気配にまるきり気づかなかった。

 

 

ミスター来栖は物珍しそうに目をぱちぱちさせながら私の元へ近づいてきた。

 

 

「秋矢さん、ピアノも弾けるんですね。何て曲ですか?さっきの曲」

 

 

ミスター来栖は何やら楽しそうに先ほど私が紡ぎだした音楽を軽く口ずさんだ。

 

 

私は苦笑を浮かべて「名前なんてないですよ」と、一言。

 

 

「私の即興なので。ところであなたは何故ここに?」

 

 

ミスター来栖はいつものこざっぱりとしたワイシャツにズボンと言う姿だった。それが彼の定番になっているのか、もはや彼が何時にその姿をしていようと気にならなかった。

 

 

「俺は……眠れなくてちょっと散歩に……そしたら音が聞こえてきて……それにしても即興!凄いですね、俺、こっちで流行ってる曲かと思いました」

 

 

「まさか。それに即興なんて誰でも簡単にできますよ。ただでたらめに弾けばいいわけですから」

 

 

「いや、でもそんな簡単にはいかないですよ」

 

 

普段は私を毛嫌いしているのか自ら近づいてくることがないのに、今は興味津々な猫のように私とピアノのまわりをうろうろするミスター来栖。

 

 

「隠れた才能……??」と物珍しそうに私とピアノの間で視線をいったりきたりさせている。

 

 

「才能なんてこれっぽっちもありません」

 

 

私は鍵盤のふたを閉じようとしたが、ミスター来栖はそれを阻むように蓋に手を置き

 

 

「才能ですよ。俺なんて猫ふんじゃったも弾けないですから」とまつ毛を失せて、どこかおかしそうに笑うミスター来栖。

 

 

目を伏せて、その細い指でそっと鍵盤をなぞる。

 

 

ポーン……乾いた音が一つ鳴って、私の心臓が

 

 

 

鳴った。

 

 

 

 

ここから眺める彼の顔は―――二重瞼の淵がほんのり桜色をしていて、

 

 

その物憂げな表情も何もかも

 

 

 

 

 

美しかった。

 

 

 

ふと

 

 

 

 

私の産みの母親を思い出す。

 

 

顔なんて覚えてないはずなのに、なぜかミスター来栖にその姿が重なる。

 

 

 

 

 

 

 

何故――――

 

 

 

 

 

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ミスター来栖がふいに顔を上げた。

 

 

「秋矢さん……?」

 

 

彼は不思議そうに首を傾げ、どこか怪訝そうに眉を寄せている。

 

 

「何か?」

 

 

いつもの調子で聞くと、

 

 

 

 

 

 

「何故

 

 

 

 

泣いているのですか――――」

 

 

 

 

 

ミスター来栖の指摘に、私ははじめて自分が涙を流しているのだと気付いた。

 

 

涙に理由なんてない。

 

 

悲しかったわけじゃない、つらかったわけじゃない。

 

 

理由なんてない―――けど

 

 

ただこの一瞬が何故だか苦しくて切なくて仕方なかったのだ。

 

 

私は頬に伝う涙を乱暴に拭うと、ミスター来栖の手が…指が私の頬にそっと…遠慮がちに触れた。

 

 

「涙はストレスだって聞きました。泣きたいときには泣いた方がいいんですよ」

 

 

ミスター来栖の声はどこ穏やかで、諭すような優しい声音だった。

 

 

けれど彼はその手をすぐにひっこめると

 

 

「すみません…俺……出過ぎた真似を…」

 

 

彼は顔を背け私から視線を逸らす。

 

 

私はその手を乱暴に掴んで引き寄せた。

 

 

 

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鍵盤の上にミスター来栖を引き寄せると、彼の重みで鍵盤が鳴った。そのいくつかの音はきれいな和音ではなく、いっそ不快とも呼べる不協和音だった。

 

 

「あの……?」

 

 

ミスター来栖が怯えたように目だけを上げ、私を見つめてくる。

 

 

その震える子羊のような姿が可愛くて愛おしくて、この瞬間―――全てを投げうっても彼を守りたいと、愛したい、とそう願った。

 

 

不思議だ。少し前まではどこか生意気な彼を服従させたいと思って居たのに、今は―――ただ愛しい。

 

 

私はミスター来栖の細い顎に手を掛けると上を向かせ、彼は抵抗する意味で顔を逸らそうとしたが

 

 

私が強固にそれを阻んだ。自らの顔を近づけて彼の唇に唇を寄せると

 

 

「秋矢さ……!酔ってるんですか…!」

 

 

彼は私の手の中で喚いた。

 

 

嫌われていると分かっていた。好きになって欲しい―――なんて願ってなどいない。

 

 

ただこの瞬間だけ―――私のものになってくれれば。

 

 

唇が触れ合う瞬間……

 

 

 

 

 

 

TRRRR…

 

 

 

 

 

 

タイミングが良いのか悪いのか、私のガウンのポケットの中で聞き慣れた着信音が聞こえた。

 

 

「電話――――……ですよ……」

 

 

ミスター来栖が私の手から逃れ、顔は離れていった。

 

 

名残惜しそうにその手を宙ぶらりんにしたまま、けれどそれ以上何かをする気もなくなった。

 

 

ただじっと目の前の彼と対峙していると

 

 

すっ……

 

 

ミスター来栖が私のガウンのポケットの中に手を差し入れ、スマホを取り出した。

 

 

その画面を見つめてミスター来栖はちょっと目を開いたのち、切なそうに眉を寄せて

 

 

 

 

 

「鳴ってる……ずっと、ずっと―――あなたを呼んでます」

 

 

 

 

 

私の手にスマホをしっかりと握らせた。

 

 

 

 

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私を呼んでる――――……?

 

 

一体誰がこの私を必要としているのだ。

 

 

オータムナル様もマリア様も、沙夜姫様も―――誰もかれも私の本質など必要としていない。

 

 

彼らにとって私は都合の良い人形でしかないのだ。

 

 

それを演じるのは苦ではなかったが、

 

 

私の居場所は一体どこなんだろう。と最近……考える。

 

 

そんな想いでスマホを眺めると

 

 

 

 

 

着信:母

 

 

 

 

 

になっていて私は目を瞠った。

 

 

私の手の中で鳴り続けるスマホを眺め、出るか出ないか迷ったが私は諦めて出ることにした。

 

 

「もしもし?」

 

 

『―――……徹?』

 

 

久しぶりに聞く母ミツコの声の何て遠いこと。

 

 

日本とカーティアは時差が六時間だ。

 

 

今、日本は朝の8時ぐらいだろう。

 

 

たったの六時間で行き来できるのならそう遠くないように思われるが、カーティアに向かうにはいくつかの飛行機を乗り継いで迂回しなければならないのだ。

 

 

その湾曲した空路が私たちの距離そのもの。

 

 

母、ミツコとは去年の正月以来会って居ない。

 

 

『徹、今年は帰ってくるわよね』

 

 

母は開口一番にそう聞いてくる。

 

 

ここにも私と言う人形を求めた人が―――居た。

 

 

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母と会いたくない理由は特になかった。ただ、故郷は私の苦い過去をたくさん蘇らせる。

 

 

母と会うと必然的に、あの悪魔のような養父を思い出す。

 

 

何も知らなかった彼女に何の恨みもないが―――

 

 

それが私を躊躇させる要因だった。だが今月に入ってこの電話が三回目になるとさすがに無視できない。

 

 

今年還暦を迎える母親は日本に一人。

 

 

一人だと何かと不自由だし、何より歳もとって心細い想いをしているのだろう。

 

 

火事の日以来、私たちは身を寄せ合って二人で生きてきた。

 

 

養父が死んで、貿易会社は莫大な借金だけ残して間もなく倒産した。親戚筋をいくつも頼ったが、彼らは手のひらを返したように私たちに冷たかった。

 

 

そんな中、二人で生きてきた。言わば運命共同体と言えよう。

 

 

血が繋がらない―――とはいえ養母は私を実の息子としてしっかりと育ててくれた。

 

 

私にとっても母にとっても互いがたった一人の家族。

 

 

私は諦めたように吐息をつき、

 

 

「皇子に暇(いとま)をもらって正月……いや、クリスマスには帰るよ」

 

 

短く言うと、

 

 

『そう?もっと早く帰ってこれない?あなたの顔を見たいわ』

 

 

母の話はまだ続きそうだ。気を利かせてミスター来栖がそっと私から離れると一礼だけして去って行こうとする。

 

 

その手を私は引き止めた。

 

 

彼の手首を掴むと、彼は目をまばたいて私を見上げてきた。

 

 

私は一体―――何をしているのだ。彼を引き止めて、どうしようというのだ。

 

 

私はそっとその手を離し―――

 

 

『ねぇ徹。話したいこともあるし―――、あなたが帰ってきてくれたらあなたの好物たくさん作るから』

 

 

母の声を聞きながら、それでもミスター来栖がそっと私の手を握り返したとき、今度は私が目を瞠った。

 

 

ミスター来栖は私に小さく頷きかける。

 

 

「大丈夫」と言われた気がして

 

 

何故だか私の中にくすぶっていた小さな不安が浄化されてきれいになっていく感じがした。

 

 

私も小さく頷き返し彼の手を握りしめた。

 

 

 

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