SECOND FLUSH
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-20XX年11月XX日 Karrtia AM0:17 -
街は夜も22時を過ぎると暗くなる。
市場はもとより、カーティア国の人々は眠りにつくのが早いようだ。その代わり朝も早いが。
とっぷりと夜の帳が膜を引く中、一台の黒い車が市街地を猛スピードで駆け抜けた。
これが日本ならすぐにスピード違反で捕まるだろうが、巡回しているパトカーはいない。
交番のようなものはあるが、そこも明かりが消えている。
「平和なもんだぜ」
男――――……Tは車のハンドルを操りながら、口の中で嘲笑した。
目的の英国領事館まで飛ばして十分ほどで到着できた。立派な煉瓦造りの塀の裏手に回ると守りが薄いのか衛兵一人も見当たらない。男にとって好都合だ。
車を停車させると助手席に置いたノートPCを開き、黒の皮手袋で覆われた指先でキーを操る。
画面に浮かんだ領事館内の見取り図は事前にハッキングしたものだ。
これと言った特殊なセキュリティは存在せず、
「やはりセキュリティが甘いな。原始的な方法で行きましょーか」どこか楽しげにつぶやき、男はノートPCを閉じると、車を出た。
黒の革ジャンに黒のパンツ。編み上げブーツは動きやすさから選んだ。
- 闇に溶け込むために
領事館の煉瓦造りの塀を見上げて、鉄線などが張り巡らされてないことを確認すると、男はそこから数歩離れた。
口にナイフを咥え、助走を付けて飛び上がると、軽々と塀の上に飛び乗る。
「よっと」
まるで猫のように軽々と飛び乗って男は塀の上に立つと、領事館の建物が目の前にそびえたっていた。
目の前は小さなバルコニーがある。またも軽いジャンプをして難なくバルコニーに飛び移った。
バルコニーの窓から中を覗くとカーテンが掛かっていて、室内は照明が落とされてうす暗い。
当然施錠されていた。
男は口に咥えたナイフを手にして両開きの窓と窓の隙間にその切っ先を差し込んだ。
「旧式の鍵穴だ。開いてくれよ~?」
男の願いは叶い、あっけなく錠が外れる。
ギィ
少し錆びついた音を立てて窓が開き、
「Yes♪」
男は小さくガッツポーズ。そっとその窓を押しやり、そこから侵入した。
P.203
領事館は三階建ての建物。
ハッキングの情報に寄ると、目的は二階にある資料室と三階にある貴賓室だ。
二階の方が手っ取り早いということもあるが、何よりも気持ちが資料室に向かっていた。
事前にハッキングしたこの領事館の見取り図を頭に叩き込んである。この部屋は今日は使われていない会議室だった。
男は忍び込んだ会議室の扉を開け、そっと廊下の様子を伺った。
廊下は思ったより狭い。アイボリー色の内壁と天井がまっすぐに伸びていて、床はこげ茶の絨毯が敷かれていた。
白い壁に何か分からないが値が張りそうな絵画がいくつも飾られている。
「悪趣味だぜ?」
絵画に、にやりと笑いかけたときだった。
革靴が絨毯を鳴らす音が聞こえ、男は目尻を吊り上げた。
ナイフを再び口に咥え、手近にあった扉のドアノブに飛びかかり、そのドアノブを踏み台にして壁に備え付けてある燭台に掴ると、振り子の原理で脚を降り、向こう側の壁へ両脚をつく。
つまりはこうゆう状態だった。
男…Tは、両手両足を天井の壁に付き、大の字になってバランスを取っている。
男の潜んでいる天井の下に、この建物の表に控えている衛兵とは違ったスーツの男がゆっくりと通過した。
耳にインカムのイヤホンを装着している。
「2nd floor.clear.(二階、異常なし)」
P.204
ガードマンと思しき男がTの下を通過したところで、Tはガードマンのすぐ後ろに音もなく着地し、気配を察したのかガードマンが振り向いたところを、素早く首に腕を回しガードマンを羽交い絞めにした。
またも素早い動作でガードマンの耳からインカムのイヤホンを抜き取ると、それを足で踏みつける。
インカムのイヤホンはTの足であっけなく潰された。
「What!?」
ガードマンがスーツの中に隠し持った拳銃を抜き出すより早く、Tの振り上げた脚の先がその手元に命中して拳銃が宙に放り出される。
Tはそれを器用にキャッチすると、ナイフの先をガードマンの喉元に突き付けた。
「Don't move.Keep your shirt on.(動くな、騒ぐなよ?)If you make quiet, I make nothing you.(大人しくしてたらあんたに何もしない)Ya dig?(分かったか?)」
低くガードマンの耳元で囁き、ガードマンは自分が置かれた状況がようやく理解できたのか、こくこく頷いて両手をそっと上げる。
「Come on.Step this way.(来い)」
Tはガードマンにナイフを突きつけたまま、目的の部屋『Material room(資料室)』と書かれた扉の前まで移動し、その扉の横に備え付けてある9桁のキーパッドを目配せ。
「Release key.(解除キーを)」
事前に、この場所がキーロックされていることは知っていた。
ガードマンが小刻みに震える指先でそっとキーパッドに指を滑らせた。
カチャッ
小さな電子音が聞こえて、この部屋の扉が開錠された。Tが扉に手を掛けると、それは難なく開いた。
ガードマンが通らなかったら、ロックを破壊することも考えていたが、そうすると騒ぎになることは間違いない。運よく彼が通ってくれたことに感謝をしてうっすら笑った。
「Good job.(よくできました♪)The hell with you.(もうあんたに用はない)Bye.(じゃな)」
ガードマンの耳元で再びそっと囁き、今度は彼の髪を掴み、勢いをつけると頭ごと扉にぶつけた。
衝撃音とガードマンの小さな悲鳴が聞こえ、やがて意識を失ったのか彼はズルズルと床に倒れ込んだ。
P.205
Tは伸びたガードマンを大股に跨いで、部屋の扉を開けた。
中に入るとき、ほんのわずか振り返ってガードマンを見下ろす。
「せっかくのイケメンが台無しだな。その高い鼻をへし折って悪かったよ」
ガードマンは両手両足を投げ出し床に倒れ込み、割と整った顔面のどこからか血を噴き出し絨毯に赤黒い染みを作っている。
Tはガードマンから奪った拳銃を手慣れた手つきでフィールドストリップ(解体)してマガジン(弾倉)を取り出すと、床に放り投げた。床に金属音の音が響き、
「悪いな。銃は嫌いなんだよ」
Tは少し笑むと、すぐに踵を返した。
そうゆっくりしている時間はない。
明かりを落とした部屋の中、Tは持参してきたペンライトでぐるりと照らすと
薄暗い部屋の内部構造が大方分かった。壁に背の高い茶色の棚。その横にはステンレスのラックがあり、たくさんのファイルに年代別のラベルが貼られ管理されている。
この資料室には過去にカーティアに入国した英国の全ての人物の資料が揃っているのだ。
ステンレスのラックに陳列されている資料を指先でなぞり、素早く目的の年を見つけるとファイルを取り出した。
皮手袋のまま、乱暴にページを捲っていくと、やがて探していた目当てのページを見つけた。
そこには英国のパスポートのコピーが挟まれていて、カラーコピーされた女の顔写真は懐かしい笑顔を浮かべていた。
Tは口で皮手袋を外すと、露わになった指でその写真をそっとなぞろうとして―――
やめた。
その写真を愛おしそうに眺めて
「Samantha Watson」
彼は女の名前を口にした。
P.206
本当は今すぐにでもそのファイルの一部を持ち去りたかったが、Tは溢れる複雑な感情を押し殺し、そのファイルをそっと閉じた。
パタン…
空虚な部屋にファイルを閉じる音だけがやけに大きく響く。
「You just wait.(待っててくれ)I'll come and get you.(俺が必ず迎えに行く)」
それだけを言い残し、彼は部屋を後にした。
――――
――
一つ目的を終わらせ、残りはもう一つ。貴賓室だ。
幸いにも貴賓室のある階はガードマンが居らず……と言うべきか、さっき伸した男が一人で見回りをしていたのだろう、その上貴賓室の鍵は資料室の厄介な暗号キーではなく旧式だった。
バルコニーの窓から忍び込んだ要領で鍵を開けると、こちらはさっきのどこか質素でそっけない部屋とは打って変わって、豪奢な造りの部屋が広がっていた。
明かりを点けることはせずに、Tはまたもペンライトで内部を照らし出す。
天井は茶色の太い梁が縦横に走っていて、四角の中には英国のさまざまな紋章が描かれていた。
ワイン色のカーテンはベルベット素材で、留め金は金色の飾りが品良く取り付けてあった。
その部屋の中央にこれまた古めかしい……言いようによってはアンティークとも取れる白いテーブルがあり、その上に乗った何か、には白い布がかぶさっていた。
「貴賓室とは優雅な待遇だな。VIP扱いかよ」Tの口から嫌味が飛び出る。
Tはその白いテーブルに近づき、ペンライトの光を白い布に彷徨わせるとその光は不気味な人型を浮き上がらせた。
その布を
バサリ
大きな音を立てて取り去ると、まるで作り損ないの蝋人形のような人間が全裸で横になっていた。
「Hey.I've been wanting to see you.(よーお、会いたかったぜ?)
Kyle(カイル)」
そう、そこに横たわっていたのは、オータムナル皇子とマリア皇女の従兄弟にあたる
カイルだった。
P.207
言うまでもなくカイルの体に命の息吹は感じられない。
蝋のように白い肌は白いと言うよりいっそ青に近い。髪と同じ色の瞳は固く閉じられ、血の気を失った唇は僅かに開いている。
白い胸には痛々しいYの字が描かれていて、解剖後の縫合痕が残っていた。
Tは体を折るとその遺体のカイルの口元に顔を寄せ
「Dead men tell no tales.(死人に口なし、か)I wanted to talk to you more.(俺はあんたともっとお喋りしたかったよ)
That's a bummer.(残念だ)」
カイルの口元でそっと囁いた。
そしてゆっくりと体を起こすと、
バサッ!
またも乱暴にシーツをカイルの上に放り投げ、仰々しく両手を広げた。
「Well,well well.(まぁいいさ)
You always talked badly. Because you're dead, it's quiet and good.(あんたはお喋りだった。俺にとって死んでいた方がまだましだ)」
やや芝居がかった台詞でくるりと踵を返し、カイルに背を向けようとしたところで一枚のファイルがシーツの横からはみ出ていることに気づいた。
そのファイルを引き抜くと
「postmortem certificate…
死亡診断書?案外早く見つかったな」Tは口元でにやりと笑い、ナイフをテーブルに置くと再びペンライトを口で咥え、そのファイルをパラパラとめくった。
その一ページに
“cause of death(死因)”と書かれた項目を見つけ、皮手袋の上から英語の連なりを指で追う。
その連なりの一文で指を止め、ある化学式に着目した。
「C 34 H 47 NO 11 ―――この化学式は恐らくアコニチン……
トリカブトの毒―――か」
Tは目を開いてその化学式を凝視しているところだった。
「Freeze!(動くな!)」
バタバタと乱暴な足音がしたかと思うと、いつの間にか出入り口はさっきのガードマンのような男たち三人に包囲されていて、Tは
「マズったなぁ」
のんびり言って片手を挙げると片手を開いて顔を隠した。
P.208
「Halt, who goes there!(何者だ!)」
ガードマンらしき男数人は黒光りする拳銃を両手でしっかり握りその先をTに向けてくる。
「ないすとぅ~み~ちゅ~」
Tは余裕の顔でへらっと笑って片手を振ったが、その手の冗談は通じないのか、銃口を突きつけられるように向けられてTは肩をすくめた。
「Hey hey hey.(おいおい)Can't a person even joke?(冗談も通じないんかよ)
「Listen to yourself.(何を言う)What nerve!(いい度胸だな)It's a good nerve to enter to steal it openly and squarely.(領事館に堂々と盗みに入るとは)」
「I'm dare.(俺は大胆でね)」
Tは口元でにやりと笑ったが、男たちにはその冗談が通じなかったのか拳銃を構え直し、そろりそろりとTに近づく。
「You're such state and is a security guard fit?(そんな恰好でガードマンが務まるのかよ)」
「Shut up and die!(黙れ!)Hold your hands up and put them behind your head.(両手を頭の後ろへ)On your knees.(ひざまずけ)」
まるで警察官のマニュアル通りな行動にTは笑い出しそうになったが、何とかそれを堪えて言われた通り両手をそろりとあげる。
途端にガードマンの持った光がTの前を行き交い、光から顔を庇うようにTは顔を背けた。
一人のガードマンが用心深く近づいてきて、Tの肩先に銃口を突きつける。
文字通り―――
手も足も出ない。
今のTはなんといっても丸腰だった。
P.209
ちらり
カイルの寝かされているテーブルを見上げると、その端にTが持参したナイフの柄が見えた。
「どうやら俺は
舐められているようだ―――」
口の端でにやり、Tは笑いを湛えると
「What!?」
ガードマンが短気そうにぐいと銃口でTの肩を押し、だが彼はその一瞬を見逃さなかった。
Tは突きつけられた拳銃に素早く手を伸ばし、スライドを押さえると発砲できないようにして男の手ごと強く引いた。
一瞬のことでガードマンたちも、そして拳銃を突き付けていた男もその状態についてこられなかった。
Tはスライドを握ったまま男の手を捻ってその上から発砲した。
ガードマンの一人の手元に一発だ。
男が小さなうめき声を挙げ、手から拳銃が離れ、次いでもう一人の男がTに向かって拳銃を構えるも
Tの方が一足早かった。
羽交い絞めしていたガードマンの首を捻ると
ごきっ!
鈍い音を立ててガードマンは床に倒れる。
その様子を目に入れたもう一人のガードマン…Tに拳銃を向けている男の気が取られた。
その一瞬の隙をついてTは素早く身を起こすと、テーブルを蹴り上げその衝動でナイフが飛び上がる。ナイフを手にしたTはその切っ先を残る一人のガードマンに放った。
今度はガードマンの肩先を狙うと的確にヒットしたナイフの負傷により「Oh my god!」男は悲鳴を挙げその手から拳銃が放り出される。
たった一発の弾と一つのナイフはガードマンの急所をわざと外して正確に撃ちぬかれた。
それぞれのガードマンは負傷した場所を押さえ、その傷口から血液がどんどん流れて絨毯に染みを作る。
「ルームキーパーが大変だ?」
Tは苦笑を浮かべながら男たちの負傷を目視で確認すると、自分の足元で気を失っている男を冷めた目で見下ろした。
「It's OK.I'm not guilty of murder.(大丈夫だ、殺してなんかないからな)」
こうしてTの周りには三人の負傷者が出、その三人ともすぐに動ける程ではなかった。
「だが、長居は無用だな」
Tはナイフを持つと堂々と貴賓室を後にした。
P.210
Tがちょうど貴賓室を出たときだった。
「There he is! Get him!(いたぞ!!こっちだ!)」
駆けつけた一人のガードマンに出くわした。
「ったく。運が悪いぜ」
Tは吐き捨てるように言って、拳銃を構えようとする男に回し蹴りを一発。腰を捻り飛び上がった態勢のそのキックは男のみぞおちにヒットして、男はその場で蹲る。
駆けつけたもう一人のガードマンの首に肘鉄を食らわし、ガードマンはみっともなくひっくり返った。
「口ほどにもないヤツらだな」
それでも用心のため拳銃二丁を奪い、それぞれ蹲っているガードマンに背を向けようとしたときだった。
バタバタと…またも乱暴な足音が聞こえ、Tは振り向くと今度は三人ばかりではなく数人の大男がTに向かって走ってきた。その誰もが拳銃を構え、Tに向けている。
「ゲェ!!まだそんなに居たんかよ!」
さすがにTもこの状況で向かって行ける余裕はない。
残った道は、来た道を引き返すことだ。
Tは走り出した。
「Weit!!I'll shoot if you move!(待て!動くと撃つ!)」
「んなこと言われて止まるバカがどこに居るんだよ!」
Tはひたすら目的地に向かって走った。後ろを振り向くと、銃弾が飛んできてTは頭を下げると目の前の扉に穴が開いていた。
「ぅを!!短気過ぎるぜ!!」
さらに飛んでくる銃弾を何とか避け、階段を駆け下りる。
狭い階段ではさすがに相手も発砲できないのか、銃声はいっときの間止んだ。Tは時短のために途中から階段の手すりに飛び乗ると、滑り台の要領で下まで降りた。
バタバタと足音を鳴らして、男たちが追いかけてくる。
ここへ侵入したときの角部屋に向かい中に入ると、Tは扉を閉め内鍵も掛けた。
しばらくの間は時間稼ぎができると思ったが、
鈍い銃声の音が聞こえてあっけなく扉は壊される。
「Damn it! (くそっ)」
吐き捨てるようにTは呟き、慌ててバルコニーに通じる窓に目配せ。
「Nice and easy!(大人しくしろ!)There's no escape anymore!(逃げ場はないぞ!)」
一人の男が拳銃を向けてくる。
Tは迷うことなく窓ガラスに突進した。
P.211
両腕をクロスしてガラスから身を守るように体を丸めてガラスに飛び込む。
「Come on!(バカな!!)」
男たちの怒声を背後に、Tは難なくバルコニーから煉瓦の塀へと飛び乗った。片足で余裕そうに着地すると
Tが僅かに振り返る。
そこでガードマンの男たちが見たものは、
頭を軽く降る青年―――
夜空に浮かぶその青年の姿は―――ガラスの欠片がキラキラと舞い、美しかった。
「Angel……」
誰もが口をそろえてそう言って見惚れたのは、Tの美しさもあったが、もといガラスの破片が彼の背中でパラパラと舞いそれが天使の羽のように見えたからだ。
「I'm sorry.It doesn't matter. I broke off the date.(残念だがデートは中止だ)But it was fun.(だけど楽しかったぜ?)」
Tは塀の上でバルコニーから身を乗り出しているガードマンたちにウィンク。
「Adieu♪(アドュ~♪またな♪※注:フランス語です)」
Tは投げキッスをして塀から飛び降りると、停めていた車のボンネットに着地して塀の向こう側を見上げた。
この塀を超えてまで彼らが追ってこないことをTは分かっていた。
治外法権になるからだ。
案の定、彼らはそれ以上何かをするというわけでもなく、呆然と走り去るTの車の行方を目で追うしかできなかった。
名も知らない一人の男は、そののち領事館でちょっとした噂になる。
――――闇に浮かぶ天使
「Darkness Angel」それがTの異名になった。
***
P.212<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6