ヤキモチ大作戦!?
―――――
――
好きな人と距離を置こうと言われ、好きじゃない男の人の手の中でイって―――
俺ってサイテー…
次の日の朝……
昨日の余韻か、それとも罪悪感なのか腰にどんよりと重みを感じながら目が覚めた。
朝、だと言うことはぼんやりと分かった。
朝は好きだったのに―――今ほど…明けない夜が来てほしいと願ったことはない。
俺の中は悲しみと自己嫌悪に満たされて、食欲なんてこれっぽっちもなかった。
強いて言うならば
「……酒が飲みたい…」
酔って昨日のこと全部忘れられたら……と、半分現実逃避しかかっているときだった。
「おっはよ~!!コウ♬」
ドスン
マリアさまの明るいお声が聞こえたと思ったら、俺の寝ているベッドにそのままダイブ。
「ぐぇ!」
俺は轢かれたカエルのようにみっともない声を挙げてマリアさまの下から目を上げると、すぐ近くにマリアさまのにこにこ笑顔が。
朝から美少女の笑顔は眩し過ぎるぜ。
「マリア様……いけませんわ。コウさんは寝起きでいらっしゃるのに……」
と沙夜さんの声も。
何で二人が……?
「だってぇいつもおじいちゃんみたいに早いコウが一番遅いなんて、心配になってしまいますわ」
おじいちゃんって……心配……してくれてるのか??
いや、これ…苛めじゃね??
と若干疑いつつも
「ねぇ~コウ、起きて。朝よ」
とマリアさまの甘い声と花のような香りに包まれ、マリアさまは俺をぎゅっ。
マリアさま……俺をぬいぐるみか何かと勘違いしていらっしゃるご様子。
まぁいいけどぉ。
どうやら二人は俺を起こしに来たようだ。
諦めて布団から顔を出すと
「朝食行きましょ☆」とにこにこ顔のマリアさま。
マリアさまはやっぱりオータムナルさまと血が繋がっておられるだけあってちょっとした表情とかやっぱり似ていて―――
ズキリ
またも俺の心臓が壊れそうな音を立てた。
『私は愛が何たるかを知らない。
私に群がるのは欲にまみれた薄汚い人間どもだ。誰も信用できない』
オータムナルさまがそんな風におっしゃる根っこは―――、
一体どこにあるのだろう。
P.296
「顔色がすぐれなくてよ?コウ」
広間に向かう最中、何故かマリアさまはべったりと俺の腕に腕を絡ませて心配そうに見上げてくる。
マリアさま……
こんなに可愛い女の子に腕を組まれたら男なら一発knockoutだろうが、
今度は何を考えてる??
と、俺はビクビク。
マリアさまのことは大好きだけど、いまいち彼女のペースがつかめないでいる俺。
一方の沙夜さんはじゃれついてくるマリアさまと反対で今日はいつもにも増して大人しい。
「沙夜さん……どうされました?
お加減でも悪いのですか」
「い……いえ!大丈夫ですわ」
沙夜さんは慌てて手を振る。
「コウも察してさしあげないと。沙夜姫は今日レディースデーなのですわ」
レディース……
ああ、生理か…
って!!
ぅわぁ!!
「す、すみませっ!!俺、気ぃ利かなくて」
慌てて謝ると
「そんな!!めっそうもございません」と沙夜さんも慌てて顔を真っ赤にさせ俯く。
「ウブねぇ、沙夜姫もコウも」
と一人マリアさまだけがまるで自分だけお姉さんなのよ、と言いたげに流し目で笑う。
てかそんなこと俺にバラすなよ、マリアさまも!!(プライバシーの侵害だろ)
でも月のものが来るって言うのは女の子の証であって―――、そうゆうの煩わしいだろうけど、今ほど俺……女になりたいと願ったことはない。
女だったら―――オータムナルさまに恋しててもおかしくないし、女なら秋矢さんだってあんなことしてこない筈―――
そんなことをぼんやり考えている最中だった。
「おや?みなさんお揃いで。何やら楽しそうですね」
広間の前で今、まさに扉を開けようとしていた秋矢さんにばったり出くわした。
P.297
ドキ!!!!
俺の心臓が強く波打ってまるで口から飛び出るような勢い。慌てて口元を押さえ、昨夜のことを思い出すと顔から火が出そうなぐらい熱くなる。
何て顔すりゃいいんだよ。
熱くなった顔を俯かせていると
「おはようございます。マリア様、沙夜姫様、ミスター来栖」
と、秋矢さんはいつも通り。
くっそ、朝から爽やかな顔しやがって~~~……
昨日の甘い雰囲気をしまい込み、秋矢さんは通常運転。昨日、告白まがいなことをしてきてそのあと………あ、朝から言える内容じゃないけれど……その……俺の処理をしていって
飄々と立ち去ったこの人が何だか恨みがましくて俺は顔を背けながらも
俺だってちゃんとできるもん!と言った具合で
「お…!おはようございます!!」
ちゃんと挨拶したつもりが……
ぅわぁ!!声裏がえちゃったし!
益々顔が赤くなるのが分かって再び俯くと
くすっ
秋矢さんは喉の奥で低く笑った。
俺の胸の内を何でも見透かされているようで、恥ずかしいのやら腹立たしいのやら。
「マリア様、ミスター来栖はお疲れのご様子です。腕を離してさしあげてください」
“お疲れ”のところをわざと強調した物言いに、俺が思わずムっとなって秋矢さんを睨み上げると
「あら、コウはわたくしと居て疲れる、と言いたいの?トオル。
そんなことはなくてよね~」
同意を求められ、俺は激しく頭を縦に振った。
「ご機嫌ななめでいらっしゃるのですか?マリア様」
秋矢さんがちょっと困ったように苦笑い。
「別に~。昨夜はわたくしのお部屋に来て本を読んでくださる約束だったのに
どちらへお出ましだったのかしら」
マリアさまの棘だらけの言葉に秋矢さんは苦笑を浮かべて、ちらりと俺を目配せ。
その意味深な視線に―――
昨夜のことを思い出してまたも顔が熱くなる。
P.298
――――
――…
「い、いいんですか?マリアさまにあんな態度取っちゃって」
ちょっと心配になり朝食の最中に俺は秋矢さんに問いかけた。
ちなみに何故か俺の隣には秋矢さんが座っている。
オータムナルさまがいらっしゃらないことに、少しだけほっとしたものの
それでもやっぱりフられたとは言えお顔を見れないのは寂しいと言うか………
ほんのちょっとでもお姿を拝見したいと言うか……
見てるだけで幸せと言うか……
あぁ!!恋する乙女モード全開じゃん!俺っ!!
結局、オータムナルさまは俺たちが食事の終盤になってようやくお姿を見せて
一瞬だけ目が合ったものの、すぐに逸らされた―――
『待っていてくれ』
とは言われたけれど―――
そのいつかが来ないことを、何となく察知して絶望的な気分になった。
カラン……
俺の手からナイフとフォークが皿に落ち、渇いた音を立てて転がる。
「どうしました?もう終わりで?」
と隣に座った秋矢さんが俺の手元を覗き込み不思議そうに目をまばたく。
「……食欲ないんで……あの…俺……失礼します……」
泣きだしそうになるのを何とか堪えて席を立ちあがろうとすると、
ぐい
秋矢さんに手首を掴まれて引き戻された。
P.299
「何なんですか!」
半ば八つ当たりだな。思わず声を荒げると
「食欲がなければオートミールなど作らせましょう。顔色が悪い、少しでも食べた方がよろしいですよ」
秋矢さんは自分の皿に乗ったサラダをフォークで掬い、俺の口元へ運んでいく。
「いえっ!!結構ですっ」
思わず顔を背けると、今度は紅茶を飲んでいたオータムナルさまと目が合ってしまい
ふいと俺から視線を逸らすオータムナルさま。
オータムナルさま……
ズキリ……
心臓が壊れた音を立てた。
その音はかみ合わない歯車のように不快で、まるで針に刺されているように痛くて
そこからリンゴのように赤い血が流れて俺の足元に転々と落ちる錯覚を抱いたが
俺の足元には血どころか、埃一つない。
幻覚……かぁ。
俺、オータムナルさまを好き過ぎて幻覚まで見えるようになっちゃったよ―――
P.300
勉強会が無くなって、俺の仕事と言えばほぼゼロに等しかった。
――――
「それで、私の手伝いを?」
午前中、秋矢さんのお部屋を訪ねてお手伝いを申し出た。
「簡単な書類整理とかでいいんです。何にもしてないのに給料貰うのは心苦しくって……」
椅子に座った秋矢さんは黙って俺の話を聞きながら腕と脚を組む。
お前に何が出来るんだ?と思われているに違いない。
「あ!なんなら秋矢さんのお部屋のお掃除とか……」
俺の声はどんどん小さくなっていった。顎を引いて上目づかいで聞くと、秋矢さんは大きなため息。
「ミスター来栖、そうゆう表情はやめた方がいいですよ?少なくとも私以外の前では―――」
だけど返ってきた言葉は予想外のもので
「え?」
目をまばたいていると
「いいえ、すみません。私の我儘でした。さっきの話は捨て置いてください」
「はぁ…」
「簡単な書類整理など、お願いしてもよろしいですか?」
秋矢さんは組んでいた腕と脚をゆっくりと解き、柔らかい笑顔を浮かべた。
「は、はい!!頑張ります」
P.301
―――――
――
「このチェックが入っている書類には印鑑を、この付箋がしてあるものに関しましてはこちらに除けていただいて、のちほど皇子が確認されます」
オータムナルさまの執務室でざっと説明を受けること十分。
オータムナルさまは午前中ご公務とかで宮殿内にはいらっしゃらない。って秋矢さんから聞いた。そのことにちょっとほっとした。
会いたいけど、また視線を逸らされたら―――苦しくて消えてしまいたくなる。
色々なことを考えたくなくて、俺は秋矢さんの説明を真剣に聞き入った。
「こことこの印は―――」
椅子に座った俺の背後から腕を伸ばし、俺を包み込むように屈んだ秋矢さんが俺の手元にある書類を指さし。
いつも以上に近づいた距離に―――昨夜のことを思い出してしまった。
急に顔が熱くなる。
「どうしました?お顔が赤いようですが」
秋矢さんはデスクに手をつき、にやりと意味深に笑って俺を覗き込んでくる。
「ど、どうもしてません!」
慌てて顔を逸らそうとしたときだった。
「トオル、居るのか?今日の公務についてだが」
聞き慣れたオータムナルさまのお声に、俺の肩はびくりと小さく震えた。
だって今日は公務とかでいらっしゃらない筈―――秋矢さんがそう言って―――……
思わず顔を上げると、秋矢さんの薄い唇がにやりとつり上がった気がした。
あ、秋矢さんーーー!!俺を騙したな!
思わぬ登場に何て顔をすればいいのか分からず一人わたわたしていると
「紅?何故お前がここに居る」
オータムナルさまは不機嫌そうに眉根を寄せて低く呟く。
「あの……俺……」な、何か言わなきゃ。
慌てて腰を上げると
「お前は私にだけではなく、トオルにも“懐いて”いるのか。
お前は一途に元恋人を想いつづけていると思いきや
とんだ
Bitchだな」
ビッチ―――――………
オータムナルさまはそれだけ言うとくるりと踵を返して、執務室を出て行ってしまった。
P.302
そんな……
俺が秋矢さんに色目を使ってるとか言いたいのかよ……
自分だってたくさん側室が居るくせに、俺には自分を見ててほしいとか。
そんなの我儘だよ。
そんなことを思いながら、それでも目に熱い何かがこみ上げてきて、喉を息が逆流してくるような独特な感覚が這い登ってきて
それをやり過ごそうとして目元をぐいと拭ったときだった。
ふわり
秋矢さんが俺の目元を腕で覆い、そっと俺の肩を包み込んだ。
へ――――……
「泣きたいときには泣けばいい、とあなたは仰いました。その言葉あなたにお返ししますよ。
恥ずかしいのであれば、見ないようにします。
こうしたら誰もあなたが泣いていることに気づかない」
秋矢さん――――……
こんなことで泣く自分がみっともないけど、でも
この悲しみを止められないんだ。
秋矢さんの腕はスーツの袖越しでも温かく、俺は夢中になって秋矢さんの袖に縋り
「……ぅー…」堪え切れず嗚咽を漏らした。
―――――
――
涙が渇いた頃、俺は洟を啜りながら秋矢さんを見上げた。
秋矢さんは俺が泣き止むまでずっとその態勢で待っててくれて、そっと腕を下ろすと
「吊そうになった」とぼやいてた。
「てか!そもそも秋矢さんがオータムナルさまはいらっしゃらない、とか嘘つくからこんなことになったんじゃないですか!」
涙が引っ込んで、すっかりいつものペースを持ち直すと俺は秋矢さんを睨み上げた。
「ミスター来栖も皇子もまだまだ子供ですね。
これは作戦です」
またもあっさりさっぱり言われて、俺は目が点。
作戦――――……
P.303
「ですから、私とあなたが親しくしているのを見せつけて皇子にヤキモチ妬かせばいいんですよ」
なるほど…!
「……じゃないよ!!ホントに嫌われちゃったらどうしてくれるんですか!」
思わず喚くと
「だったら私の元へ来ればいい」と秋矢さんはまたもぶっ飛んだ発言。
「あのー……昨日の………」
「ああ、あなたはとても可愛かったですよ」
秋矢さんは意味深に微笑むと視線を俺の股間に向けてくる。
バっ!!
思わず両手でその場所を覆って顔を真っ赤にさせていると
「あの!本気なんですか!!秋矢さんは俺のこと」
「大好きですよ?」
秋矢さんはいつもの意味深な笑みではなく、少しだけ悲しそうな表情を浮かべた。
「あなたとイチャイチャして皇子にヤキモチ妬かせたら、彼はまたあなたのところに戻ってくるでしょう。
長い付き合いなので皇子の性格を知り尽くしています。間違いないです。でも疑似とは言え―――まるで恋人のようなやりとりが……ほんのひとときだと思っても私には心地よいものなんですよ」
え―――……
「それじゃ沙夜さんは……どうなるんですか……」
思わず聞くと
「何故ここで沙夜姫様のお名前が?」
と秋矢さんはちょっと心外そうに眉をひそめた。
またしらばっくれる気かよ。
やっぱ秋矢さんの言うこと全てが嘘っぽく聞こえるよ。
そんなことを考えてむっつりと顔をしかめていると
「ああ」
秋矢さんは何か納得したのか一人頷き、
「彼女とは確かに“大人な関係”ですが―――それ以上でもそれ以下でもない。
友人の一人」
大人な関係の友人!?
「それってセッ……!」
言いかけて俺はまたも慌てて口を噤んだ。
くすくす
秋矢さんは喉の奥で笑い
「はっきり仰ってくださって構いませんよ。セックスフレンドだと」
沙夜さんと秋矢さんが――――……嘘!!!!?
P.304
とは言うものの、沙夜さんは秋矢さんにマジ惚れしてそうだし……
お慕いしている殿方ってのも秋矢さんのことだろうし。
そんなことを考えながら書類の印鑑押しで、半日が過ぎもう半日は暇をもらった。
秋矢さんも自分の仕事があると言って部屋に籠っちゃったし、またも俺一人。
廊下の突き当り、半円形の窓から何となく外を眺めていると
中庭をオータムナルさまと沙夜さんが仲良くお散歩中だった。
え――――……?
「あら、珍しい組み合わせですこと」
すぐ隣にいつの間にいらしたのかマリアさまが窓枠に頬杖をついて、お二人の様子を気のない素振りで眺めている。
「お兄様はいっつもそう。わたくしのお気に入りを奪っていくのよ。
トオルでしょ、コウでしょ、沙夜姫まで」
マリアさまは小さく吐息をつき指を折っている。
「話し相手が居なくて暇ですわ…」
「あの……前から思ってたのですが。マリアさまと沙夜さんて仲が良いですよね」
「そう?普通じゃないかしら。でもわたくしは沙夜姫のことが大好きですわ。
だって沙夜姫はわたくしのこと
愛してくれるから」
愛―――……それはその…変な意味じゃなくて…??
「わたくしを妹のように接してくれるからですわ。姉妹の愛は無償の愛ではなくて?」
そう言われて「ああ」俺は頷いた。
何だか変な想像していた俺が恥ずかしく思う。
何せ皇子が男を側室にできるぐらいの変な国だからな。
「お姉様が居たらきっと沙夜姫のようにお優しくて、可愛らしいお人なんですわ」
ふぅ
マリアさまは小さく吐息を吐くと
「お姉様が欲しかったのに―――
でも、今は沙夜姫が居るから楽しいわ」
小さく笑った。
お姉さま――――かぁ………
「マリアさま……あの…」
言いかけたときだった。
庭を散歩中のオータムナルさまとばっちり目が合ってしまった。
P.305
オータムナルさまは俺と目が合うと、ふいとその視線を逸らし、さりげなく沙夜さんの肩を抱く。
な…!
何なんだよ!!
お二人は見せかけの夫婦じゃないんかよ!
あんな!!これ見よがしに見せつけやがって!!
ふつふつと俺の中で怒りがこみあげてきた。
ぷい
俺は顔を逸らし、マリアさまに向き合った。
「話し相手が居なければ俺がお相手しますよ!」
やけっぱちだった。
「あらそぅお?♪」
―――――
――
マリアさまのお話相手は大変だった。
途中、マリアさまはお人形ごっこがしたいと言い出し、おままごとのようなものを想像していたが、
なんと医療ドラマの手術ごっこで、『今、わたくし日本の医療ドラマにハマってますの』
と。取り出したのはフランス人形で、その服を丁寧に剥くとマリアさまはメスに見立てたナイフを取り出し……
キラリ
そのナイフの切っ先が妖しく光った。人形に飽きたら俺が切り刻まれるかもしれない恐怖を抱いた俺は
「そんな物騒なもの危ないです!女の子ならもっと他のことしましょう、ね?」
と言い聞かせるのに大変だった。
と、言うわけでマリアさまのお相手はオータムナルさまのお相手より大変でへとへとになりながら自室に向かうと
クローゼットが何故か半開きになっていて、ぎぃぎぃと気味悪い音を立てて揺れていた。
良く見たら窓が半分開いていて、そこから侵入した風で扉が揺れているのだ。
扉の一面には鏡がはめ込まれている。
「あれ…俺閉まった筈だけど…」
訝しく思いながら近づくと、その鏡の側面に赤い文字が書かれていることに気づいた。
何だ……
見ようによっちゃ血液のようにも捉えられる。
ドキリ、と心臓が波打って俺はその文字にそっと指を滑らせた。
鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、それは生臭い血液なんかじゃなく女性が使う口紅のそれだった。
鏡にはこう書かれていた。
『I had a really good time last night.S Y』
(昨夜は楽しかったわ)
『You owe me one.
S Y』
(あなたに一つ貸しよ? S Y)
P.306
俺は慌てて振り返った。
けれど、当然ながらこれを書いた犯人に会えるわけでもなく。
気持ちを切り替えて、慌てて今度はベッドの下―――スプリングと木枠の間に挟んだ地図を取り出し慌てて開くと
俺が書いた地図の中央に、こちらも同じ色の口紅の走り書きで
『How's the weather in LA now?』
(LAの気候はどう?)
と
綴られていて、大胆にも最後にキスマークが押してある。
ぐしゃっ
思わず地図を強く握りしめると乾いた音が部屋の中に広がった。
「どうして――――……
一体誰が――――」
見覚えのある赤色はクリスチャンディオールの№999
ステイシーが愛用していた口紅だ。
P.307
Last night て書いてあるから、昨日会った人には違いないが―――
S Y
ってイニシャルが謎だ。
俺は唇を噛んで自分が知っている限りの人間S Yとイニシャルを考えた。
知っている人物で昨日会った人―――
S Y
S Y……
Sofia Yavlinsky(ソフィア・ヤヴリンスキー)
俺は目を開いた。
あの占い師―――彼女は恐ろしいほど色々知っていた。
それにあの赤い唇―――リンゴの色を思わせたが、あれはもしかしたら№999かもしれない。
いや、ソフィアさんが俺に薬を盛った張本人にまず間違いない。
その後、助けてくれたのは―――レディブラックスワン―――謎の女だ。
彼女がS Yなる人物なのか。そう言えば彼女も赤い口紅を引いていた。
……分からない。一体誰なんだ!
そんなことを考えながら、二日が経った。
あれこれ考え事をしながらの作業で上の空だったからいけなかったんだ。
その日俺は秋矢さんに執務室に呼び出されてこっぴどく叱られた。
「この書類に間違えて押印してありましたよ。どうしてくれるんですか」
バサっ
目の前に書類を投げ出されて俺は目をまばたくしかなかった。その上部にはオータムナルさまが後で確認する、と言う目印の付箋が張られていて
しまった!!
と思ったがもう遅い。
執務室には秋矢さんの他に、執務机で手を組んだオータムナルさまがいらっしゃって。
それだけで緊張なのに、さらにオータムナルさまの前で叱られていると思うと俺は顔も上げられなかった。
「こんな簡単なこともできないんですか、あなたは」
秋矢さんは失望したと言いたげに額に手をやり、
「……すみません」俺は平謝りしかできなかった。
説教は十分ほど続いた。
秋矢さんて俺のこと好きとか言ってなかったっけ?それなのにまるで容赦がない。
公私混同はしないタイプだな。それはいいことだけど―――ちょっと怖いし。
まぁ俺が悪いから仕方ないんだけどね。
俺はただ唇を噛んでその場をやり過ごすしかなかったが、
「もうその辺で良いだろう。
紅も反省している、お前は叱りすぎだ」
何と…
オータムナルさまが助け船を出してくれた。
P.308
「…ですが」
秋矢さんは尚も何か言いたげだったけれど
「私が良いと言ったら良いのだ。
紅、お前は印鑑押しなんてしなくていい。お前は―――
私の傍でただ笑ってくれるだけでいい」
オータムナルさまがゆっくり立ち上がり、俺の元へ歩いてくる。
久しぶりに縮めた距離に―――ドキリ…と心臓が鳴った。
たったの二日間なのに、その香りは酷く懐かしいものだと感じた。
はぁ
秋矢さんが盛大なため息をつき腕を組んだ。
「皇子、あなたはミスター来栖に甘すぎます」
「お前は厳し過ぎだ。もっと優しくなれないのか」
「私は十分優しく教えているつもりですよ」
今度はオータムナルさまと秋矢さんの喧嘩になりそうだったから俺は途中で二人の間に割って入った。
「あ、あの!すみません俺が悪かったんです!」
俺が慌てて言うと、秋矢さんが冷たく俺を一瞥し
「私も言い過ぎました、少し外の風に当たって反省してきます」
と、くるり踵を返した。
「待っ…!秋矢さんっっ!」
完全に秋矢さんを怒らせちゃった!
俺は慌てて彼の後を追うと、扉が閉まる間際秋矢さんは小さく俺にウィンク。
え――――……?
「ね?言ったでしょう。あなたのところに戻ってくる、と。三日と持たなかったですね」
ははっ
秋矢さんは渇いた声で笑い、
ぇえ!!もしかしてオータムナルさまの前で俺を叱ったのも、まさか作戦!?
あなどれないぜ!秋矢さんっ
P.309
けれど
急に二人きりになって、俺はどうしたらいいのか戸惑った。
オータムナルさまは立ったまま気まずそうにして顔を逸らし、俺も俺で同じように顔を背けた。
喧嘩してる間柄じゃないのに……何故か視線を合わせられない。
どうしようもなくキマヅイ。
こうゆうの“避ける”って言うんだろうな。
同じ空間に居るってのに、一向に交わらない視線に少しだけイラついた。
オータムナルさまに、ではなく俺自身に。
好きな人が手を伸ばせば届く範囲に居るのに、俺はまともに視線すら合わせられない。
また拒絶されたら―――と臆病風が吹く。
だから
「紅」
名前を呼ばれたとき―――俺は無条件で振り返った。
視線を合わせることに何か理由が欲しかったのかもしれない。
呼ばれることで―――理由ができた……なんて、やっぱり俺……こんな小さなことに一々ドキドキしてホント臆病者だ。
振り向いた先にオータムナルさまのまっすぐな視線とぶつかって…
ああ、ようやく
ようやく
交わった。
何だかとても切なくて、安心できて、幸せで―――
目を合わせるだけにこんなにも重要な意味合いがあるってこと
今まで知らなかった。
P.310
「紅」
またも名を呼ばれて、オータムナルさまの唇が俺の名前を呼ぶために動くその様をじっと見つめて
な、何か言わなきゃ……
オータムナルさまはキッカケを作ってくれた。だからこの先を俺が続けなきゃ。
「オータムナルさま……あの…俺、別に秋矢さんに色目使ってるとか…」
出てきた言葉は言い訳のようにも捉えられるものだった。
違う…こんなことが言いたかったわけじゃない。
もっと、もっと…自分の気持ちをストレートに伝えなきゃ、オータムナルさまには伝わらない。
「オータムナルさま……俺……会いたか……」
「会いたかった―――」
俺の言葉にオータムナルさまの言葉が重なった。
オータムナルさま……
「知っての通り、私は気が短い。だが自分がここまで短気だとは思わなかった―――
お前がトオルと楽しそうにしているのを見て、どうしようもなく苛立った」
俺が彼の元へゆっくりと歩いていくときだった。
バタン!!
執務室の扉をこれまた勢いよく開ける音が聞こえて、俺たちは揃ってそちらに顔を向けると
「お兄様!!またわたくしのペットを勝手に放し飼いなさったわね!!」
まるで鬼の形相のごとくマリアさまが顔色を変えて登場し、
俺たちのロマンチックな再会シーンはもろくも崩れた。
P.311
「お、落ち着いてください、マリアさま!ペットと言うのは…」
恐る恐る聞くと
「あら、コウ。いらしてたのね。ごきげんよう」
マリアさまは最初に会ったときと同じ恰好で裾を両手で軽く持ち上げると、半歩下がって頭を下げた。
その仕草は完璧なレディを思わせたのに
「snakeよ」
飼ってる動物レディじゃねぇーーー!!
てか、やっぱり??
てかまたかよ!
「逃がしたのは私ではない」
オータムナルさまはさも心外だ、と言わんばかりに腕を組むと眉間に皺を寄せた。
「じゃぁ誰ですの!?こんなことをするのはお兄様だけじゃなくって!」
マリアさまははなっからオータムナルさまが犯人であると決めて掛かっている。
「落ち着いてください、マリアさま。逃げた蛇の特徴は…」
「コウ!レイラを探してくれるの!?」
エリーにレイラ……って…蛇のくせして随分可愛い名前だよな。
「レイラは黒と赤のマダラ模様ですわ。大人しいエリーと違って少し気性が荒い子なんですの」
大人しい…ねぇ。蛇に大人しいも大人しくもないよ。
てかさらに気性が荒いと来たら、益々怖い。
俺、安請け合いしちゃって大丈夫かなぁ。
P.312<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6