夢と嘘
俺がカイルさまに襲われそうになった―――と言う事実はまるで秒速の早さで宮殿内に広まった。
「コウ!大丈夫!」
騒ぎを聞きつけたマリア様が心配そうに眉を寄せ、今にも泣きだしそうに俺へ抱き付いてきた。
ぅを!!
俺は声にならない悲鳴。
だってこんなに可愛い女の子から抱き付かれるなんて早々ないから。
「わたくしがコウさんをお止めしていればこんなことにならずに…」
心配そうなマリア様とは反対に沙夜さんは後悔の念を浮かべているようで
「違っっ!!それは違います!」
俺は慌てて否定。
沙夜さんには少しも落ち度がない。
オータムナルさまの言う通り、俺の警戒心が薄かっただけで。
「お怪我は?ミスター来栖」
と、いつものポーカーフェイスを浮かべてぴくりとも顔の筋肉を動かさず秋矢さんが聞いてきた。
「あ…大丈夫です……」
「そうですか。それなら良かった。何せあなたは日本からの大事な客人ですからね」
「トオル。お前もこうなることが分かっていながら何故警戒しなかった。ここはお前の部屋だぞ」
とオータムナル様は不機嫌そうに腕を組む。
「い、いえ!!俺が悪いんです!秋矢さんは何も…」
慌てて言うと
「いえ。私の落ち度でございます。カイル様につきまして、こうなることを予想できなかったこともなかったのです。
申し訳ございません」
秋矢さんは淡々と言って頭を下げる。
何だか大事になってきたな。
俺は頭をぽりぽり。
男に襲われかけた―――なんてかっこわるいし恥ずかしいよ。
「色々お疲れでしょうから、今日はお部屋でゆっくりお休みになってください」
秋矢さんの提案に俺は頷いた。
正直ほっとした。
とにかくこの場から逃げ出したい一心だった。
P.59
宮殿内は広い。
一度見ただけでは覚えられそうになかった俺は、案の定ここがどこだか分からなかった。
またも秋矢さんの手を借りて部屋に戻ることに。
前を歩く秋矢さんの背中を追いながら、俺は歩を早めた。
コンパスの違いか??
歩くの早いんだけど……
小走りについていくと、秋矢さんが前触れもなくふと振り返って俺も慌てて止まった。
「ミスター来栖。カイル様は私のことを何かおっしゃってませんでしたか?」
何か…??
俺は目をきょとん。
「…いえ。何も……」言い掛けて「あ」と声を挙げるとほんの少し秋矢さんの視線が鋭くなった。
まるで蛇に睨まれたように、急に居心地が悪くなって俺は顎を引いた。
「俺が秋矢さんを気になってるって勘違いしたカイルさまが‟あの男はやめておいた方がいい”って……」
「それだけ?」
畳みかけるように聞かれ、俺はブンブン首を縦に振った。
P.60
「あの……俺…秋矢さんが気になってるとか……全然ないですから…」
言いかけた言葉は、秋矢さんの次の言葉でかき消された。
「カイル様は男色家で有名です。それもあなたのようなbabyfaceをお好みだ。
これまでもいくつかこの宮殿でそう言った事件が起きていました。
しかしながら相手は王族。誰も告発できずに被害者は泣き寝入りを余儀なくされました。
あなたは本当にラッキーだ。現行犯でカイル様を逮捕することができたのでね。
あのままオータムナル様が乱入しなければ、あなたは危険にさらされていました」
その淡々とした説明に今さらながらぞっとした。再び背中に冷たい汗が浮かぶ。
『Spill it!(吐け!)』
またも俺の脳内で思い出したくもない声が響いた。
ドキン……心臓が強く波打って胸元で手を握っていると
「………ス、ミスター来栖…」
秋矢さんに名前を呼ばれて、はっとなった。
「あ…はい!」
「顔色が悪いですね。今日はゆっくり休まれた方が。眠れないのなら薬を処方させますが」
「薬……?」
「軽い安定剤のようなものです」
秋矢さんに言われて俺は首を横に振った。
「だ、大丈夫です。
それより…カイルさまはどうなるんですか……?」
ちょっと不安そうに秋矢さんを見上げると
「国外追放。と申し上げましても、相手は英国王族。手続きなどで一週間から十日は我が国の英国領事館で謹慎でしょう。
その後は書類が揃い次第、強制送還です。
今後この国の国境を超えてこの地に足を踏み入れることは二度と許されない。
ですからご安心ください」
またも淡々とした、いっそ冷たいとも言える説明に俺は目をまばたいた。
P.61
「あの……でも……カイルさまはオータムナルさまやマリアさまの従兄弟に当たるお方ですよね……」
「それが何か?」
冷たい…いっそ跳ね除けるかのようなそっけない物言いに、俺はこめかみをぽりぽり掻いた。
「それはなんか……さすがに可哀想って言うか……そこまでしなくても…って思うんですけど」
俺が目を上げて秋矢さんを見上げると、秋矢さんは呆れたように腕を組んで目を細める。
「あなたは酷い目に遭わされたんですよ?何故そんな風に思えるのですか」
「何故って……」
明確な答えなんてない。けれど何となく……
言い淀んでいると、秋矢さんは別に俺の返答に興味がないのか
「すべては皇子が決められたことです。どのみち我々が口出しできる問題じゃありません」
と、またもピシャリと跳ね除けられた。
P.62
部屋に戻って一人、ベッドに横になる。
はぁ
無意識にため息が漏れた。
今日は大変な一日だったな…ってもまだ朝か……
窓の外は明るい青空が広がっている。
昨夜はエリーの捜索と、俺のイケナイ妄想とで眠れなかったし……
寝不足の朝に、この国の眩しいほどの光は目に刺激が強すぎる。
でも…
光は―――好きだ。
「ふぁ」
欠伸が自然に漏れて俺はいつの間にかうとうと。
――――
夢の中で―――……俺は暗い部屋に居た。
寒い……
ここはとても冷えていて、肌を突き刺すような冷気に全身が震える。
肌―――……
そう、俺は衣服を何も身に着けていなかった。全裸の状態で、さらに手首に凍てつくような冷たさを感じて首をゆるりと上げるとカチャッ…小さな金属音が鳴り、それが手錠であることを知った。
膝を折り、中腰の状態で手を手錠でシャワーノズルに固定されている。古いタイプのシャワーから錆びが混じった水がぽつり、ぽつりと俺の頭に降る。
ここは―――……目を開けると、黴臭い匂いがムっと鼻を刺激した。僅かに身をよじると
それと同時に背中が焼け付くように痛みが走った。
P.63
背中から流れた血が腹を伝って太ももに流れ落ちている。
パシャン……水たまりを跳ねる音が聞こえて頭を上げると、
「Ready to answer?(言う気になったか)」
同じように裸の男が俺の回りを行ったり来たり。190㎝を超える大男だった。その手には鋭い刃のナイフが握られている。それをもてあそぶように、或は権力や立場を誇示するかのように男は手のひらにナイフの側面を叩き付け、面白そうに口の端を歪める。
「If you do not want to be like that man, you should say quickly.
(あの男のようになりたくなかったらさっさと吐け)」
男はまるで汚い何かを見るような目つきで、俺のすぐ足元で手を伸ばして絶命している俺の………仲間だった男を見下ろす。
大きく開かれた目は空虚な色を宿していて、俺自身をじっと見つめている。
「…………」
ちらりとその亡骸を見て、俺は項垂れた。
厳しい拷問に耐えられなかったのだろう。舌を噛み切って、つい数時間前に絶命した。
俺の目の前で―――
男が俺の背後に来て、すぐ後ろで膝を着く。髪を掴まれて後ろに引っ張られて首がのけぞった。
俺のその耳元で男は低く愉しむように呟いて、俺の耳の淵をねっとりとした熱い舌でなぞる。
「Do you understand the reason that I'm utilizing you?(お前を生かしている理由を知りたいか?)
You are really my type.(お前が俺好みの男だからだ)」
その気色悪い感触に顔をしかめ、俺は口に溜まった血糊をぺっと吐き出した。
何時間か前に頬を殴られたとき、口腔内を切ったようだ。
「Son of a bitch.(このゲス野郎)」
一言言って男を睨むと
「I wouldn't talk that way if I were you.(まだそんな口を聞けるとはな)There is plenty of time.(時間は十分にある)Enjoy it while it lasts.(愉しもうじゃないか)」
男が俺のすぐ背後に回ってがっしりと俺の腰を掴む。
P.64
ビクリ、俺の体がこわばった。これからまた‟あの”激痛”がはじまるのかと思うと自然、体がこわばる。
男の中心が俺の後ろの入口を無理やりこじ開けようと、あてがわれる。
ミシッ……肉と肉が軋む音がして忘れかけていた激痛が再来した。
「………っつぅ!!ぁあああ!」
いきなりの侵入に息が上がる。悲鳴が口を出て、俺の後ろで男が楽しげに笑う声が聞こえてきた。
「Come on! Spill it!(言え!)Who is your employer!(お前の雇主は誰だ!)」
俺は唇を噛んで、声が漏れるのを防いだ。激しい律動が繰り返されて、
「……誰が…言うもんか。たとえ何回犯されようと、何回ナイフで切り付けられようとな!」
俺が叫ぶと同時にガっと乱暴に髪を掴んで後ろに引っ張られる。
「What!?(何て言った!)」
耳元で怒鳴られて、鼓膜が震える。そのときだった。
カチャっ
この古いシャワールームで聞き慣れた金属音がこだました。
暗かった浴室に一筋の光の筋が灯り、俺の方へまっすぐと伸びていた。
大男の背後に、女が一人立っている。顔は見えない。だが体型や髪型で女だと判断できたのと、その僅かな光が赤いロングコートを照らし出していた。その女は拳銃の銃口を大男の頭に押し当てていた。
「Who is your employer?(雇主が誰か?)
It's me(私よ)」
P.65
「What……!?」
大男の言葉は次の瞬間……
銃声がこだまして、その爆音にかき消された。
俺は思わず目を閉じた。
男の額を撃ちぬいたのだろう、血の飛沫が俺の顔や裸身の体に降り注ぐ。
ゆっくりと目を上げると、赤いコートの女は男の両脇から男を掴み、俺の体内から男を引き抜くと、まるでゴミを扱うかのような手つきで乱暴に投げ捨てた。
額を撃ちぬかれ全裸で絶命している無様な大男の死骸を女が大股にまたぎ、こちらに歩いてくる。
折れそうなほど細いヒールの音がバスルームに響き、その女の姿をじっと見上げていると
ふわり
女が俺を抱きしめてきた。
覚えのある花のような少し甘めのフレグランス。
「Sorry it took so long.(遅くなってごめんね)」
俺は彼女の腕の中ゆるゆると首を横に振った。
彼女は細くてきれいな指で俺の頬に飛び散った血を拭い、
「I'm sorry.Kou」
もう一度小さく口の中で呟いた。
P.66
―――――
「……ス、クルス!」
誰かの声を聞いて、体を揺すられてそろり……目を開けると、目の前にオータムナルさまの顔があった。
酷く心配そうに眉を寄せている。
どういう状況か理解できず、「……?」枕に頭を埋めたまま顔をしかめると
「魘されていたぞ。大丈夫だったか」
ギシッ
ベッドのスプリングを軋ませ、オータムナルさまが俺の寝ているベッドの端に腰を降ろした。
魘されていた……?俺が……?
「オータムナルさまは……何故ここに?」
失礼も承知で俺は横になったまま目だけを上げてオータムナルさまに問いかけた。
「お前が心配だったから様子を見に来たのだ。カイルに怖い目に遭わされて怯えていると思ったからな。
可哀想に。悪夢まで見るとは…よっぽど怖かったのだな」
いや、違う……
カイルさまの件とは別件だ。
けれどそれを説明するのも億劫だった。
何より俺が忘れたかった過去だ。
オータムナルさまは悲しそうに微笑むと、俺の顔にすっと手を伸ばしてきた。
突然手を伸ばされ、その手のひらが黒い影となって俺に迫ってくる。
さっきの……一瞬の夢の恐怖が蘇ったが、オータムナルさまは何をするわけでもなく俺の前髪をそっと撫で梳き、目元をそっと拭った。
温かい―――優しい指先だった。
……赤いコートの女が俺の顔に飛び散った血を拭った…あのときと同じ
感触だった。
「涙……泣いていたのだな……可哀想に―――」
そこではじめて気づいた。自分が涙を流していたことに。
涙……
俺は―――泣いていたのか……
「はは……怖い夢見て、泣くなんて……かっこわる…」
自分より年下の皇子さまの前で、みっともなくて俺は慌てて目元を乱暴に拭うと、
オータムナルさまはその手をそっと阻み、俺の頬をその温かい手のひらで包んだ。
「かっこわるくなどない。悲しいこと、辛いことがあれば
泣けばいいのだ」
P.67
何でだろう。
刃物で傷つけられた傷は血を流しても、渇く。そしてやがて裂かれた肉は時が経てば自然に癒える。
それなのに―――涙は―――
いつまでも枯れることがない。
今まで五年、誰かが俺の涙をぬぐってくれることはなかった。ただ冷たく、俺はその悲しみと恐怖を一人でやり過ごすほかなかったのだ。
でも
今は―――優しい手がその冷たい涙をぬぐってくれる。オータムナルさまに触れられると、何故だか安心できる。
まだ出会って二日と言うのに、妙な親しみを覚えて
俺はそっと起き上がると、オータムナルさまを真正面から見つめた。
「オータムナルさま……」
「何だ?」
「恐れ多いことかもしれませんが……抱きしめてください」
抱きしめてくれたら、もっと安心できるかもしれない。
あのとき赤いコートの女がそうしてくれたように―――
もう過去の夢は見ないような気がした。
オータムナルさまはそのきれいな目をしばたかせて俺を見つめると、次の瞬間ふっと表情をゆるめ俺の肩を抱き寄せる。
「こんなことでよければ―――お前の望みをかなえてやろう」
オータムナルさまの右手が俺の肩を抱き、左手は俺の背中を優しく撫でる。
シャツで隠れたその背中に―――たくさんの傷を抱えて
その傷跡のこと、オータムナルさまは知らない筈なのに……
でもその傷を癒すようにオータムナルさまはずっと優しく撫で続けてくれた。
「お前が目覚めるまで私がここに居る。
安心して休むが良い」
そう言われて、俺はゆっくりと目を閉じた。
P.68
その夜は夢も見ず、久しぶりにぐっすりと眠れた。
朝―――目が覚めるとオータムナルさまのお姿はなくなっていた。
オータムナルさまが横になっていただろう、その場所にそっと手を這わせるとシーツにはまだぬくもりが残っていた。
「嘘つき。
目覚めるまで居てくれるって言ったじゃん……」
やっぱり……
皇子さまのきまぐれだったのかな。ただ単に日本人の家庭教師が物珍しかっただけ……とか。
『I'll call you when I get home.』
ステイシーもそう言ってたのに電話をくれなかった。
それでも
いつになく気持ちがすっきりしているのは、昨日オータムナルさまの腕の中、赤ん坊のように何もかもゆだねて安心しきって眠ったからか。
「俺って捨てられ人生なのかなー」
ドサッ!
ベッドに大の字になって愚痴をこぼす。
そこへ
「おはようございます。ミスター来栖。良く眠れましたか?
捨てられ人生とは?」
ぬっ
突然、秋矢さんが俺の視界に顔を出してきて、俺はびっくりして目を丸めた。
「お、おはようございます!!」
慌てて半身を起き上がらせる。
秋矢さんは朝っぱらだと言うのに髪もスーツも……秋矢さんが宿泊しているあのお部屋のようにきっちり一寸の乱れもない姿で、
これまたスマートに踵を返すと、ドサリ……一人掛けのチェアに腰掛け新聞を開いた。
俺の『捨てられ人生』に大した興味もなさそうだった。
「皇子よりご伝言を預かっております。
本日、朝早くからご公務がおありなので皇子はお出かけされました。
‟クルスが目覚めるまで居ると言ったのに、約束を守れなくてすまない。
公務が終わり次第すぐにクルスの元へ参る”と」
え―――……?
P.69
秋矢さんは読んでいた新聞を畳むと、
「皇子の代わりに私がミスター来栖についていることを命ぜられました。あなたが目覚め次第、私も皇子のお供をいたしますので
私はこれで」
秋矢さんはまたも淡々と言ってぺこり、と一礼するとさっさと部屋を出て行こうとする。
本当に―――機械みたいな人だ。
俺は、そんなロボ秋矢さんの背中に向かって声を掛けた。
「あ、秋矢さん!ありがとうございます。その……俺なんかの為に…」
扉に手を掛けて出て行こうとしていた秋矢さんはその手を止めてふっと微笑むと
「いいえ。心地良さそうに眠ってらしたので私も安心いたしました」
と、一言。
秋矢さん…やっぱり笑うと、すっげぇ優しい。(普段、悪い人に見えるとかじゃないけどね)
「ありがとうございました」もう一度お礼を言うと、今度は秋矢さんは何も言わず部屋を出て行った。
P.70
カイルさまの事件から三日経った。
三日間誰もカイルさまのことは口にしなかった。まるで最初から居なかったかのように―――話題にも上らない。
変な感じだ。
仮にもオータムナルさまとマリアさまの従兄弟で、英国王室の皇族であらせられる方なのに。
それとも王室だからこそ、スキャンダルが外に漏れるのを恐れているのか。
理由は分からなかったが、みんなそろったようにカイルさまの話題を避けているように思えた。
そしてこの三日間の俺の仕事は―――と言うと、逃げたエリーの捜索とマリアさまのお喋り相手ぐらいなもので大したことはしていなかった。
可愛い子とお喋りして、これで破格の給料もらえるんだったらすっげぇ楽だよな。蛇はさすがに怖いけど。
俺が派遣されたのはオータムナルさまの家庭教師だと言うのに、当のご本人は公務だとかでこの三日間宮殿をお留守にされている。
側近のような役割の秋矢さんも自然とお供して、俺は三日間マリアさまと沙夜さんしか喋っていない。
P.71
その日の夜も―――俺は広間でマリアさまと沙夜さん相手にお喋りに興じていた。
俺は女性相手に積極的に話しかける方でもなく、マリアさまと沙夜さん二人の……(てか意外とこの二人仲が良かったりするんだよな~性格正反対だけど)女子トークに頷いたり相槌を打ったりを繰り返していて
夜も12時を過ぎると沙夜さんが先に自室に帰って行って、さらにはその一時間後、今度はマリアさまが小さく欠伸を漏らしながら席を立った。
「ごめんなさい。わたくしも先に休むことにするわ。コウは?」
いくらカーティア国が温暖の国だからと言え、やはり夜はそれなりに冷える。
俺は薪をくべた暖炉の前でロッキングチェアに座って揺られながら、小説のハードカバーを掲げた。
「俺はまだこれを読んでるんで」
「そう?コウはここ最近まともに寝てないのではなくて?」
マリアさまがちょっと心配したように眉を寄せる。
マリアさまに指摘されたように、俺はここ三日ほどまともに寝ていない。寝るにしても彼女たちが居る前でうたた寝程度だ。(それはそれで失礼だが、彼女たちは気にする様子がない)
皇女さまからご心配いただいてそれはそれは恐れ多いことだが、‟あの”夢を見ると、最低三日は同じ夢を見る。そして必ず汗びっしょりになって飛び起きるのだ。
―――眠るのが怖い。
「お気になさらず。眠くなったら眠ります。おやすみなさい」
「そう?お休みなさい」
マリアさまはまたも小さく欠伸を漏らし、広間を出て行った。
P.72
――――
どれぐらい時間が経ったろう。
夢か現実か……意識がはっきりとしない中、
『Kou……』
愛しい人に名前を呼ばれた。
『Kou……?』
もう一度呼ばれて、ドサリ、と何かが落ちる音が聞こえる。
『Kou! Where are you!? (コウ、どこに居るの!)』
ピンヒールの音が床のフローリングを鳴らし、俺はゆっくりと振り返った。
『Here.(うん?)』
風呂あがりだった俺は、腰にバスタオルだけ巻いて首にタオルを垂らしてバスルームから顔を出した。
『Kou……』
マーケットで買ってきたと思われる野菜の紙袋が床に落ちていて、それを跨いで最愛の人ステイシーが俺の元に走ってくる。
『Don't go leave without me.Kou.(どこにも行かないでコウ)』
ステイシーはその日マンハッタンの空から降り注いだ真綿のような雪と同じ色の、真っ白のコートに身を包んでいて、まだ濡れている俺の上半身に抱き付いた。
『Nowhere.Stacey(どこにも行かないよ、ステイシー)』
俺は小刻みに震える彼女の背中をそっと撫でた。彼女は俺の背中に刻まれた傷にそっと指を這わせ
『I’m sorry Kou』と呟いた。俺はそんな彼女の唇にそっと指を置き、
『Don't say that.(言わない約束)』彼女の耳元で囁いた。
『Kou』
――――
「Kou……」
バサッ……
何かが落ちる音で、はっ!と目が覚めた。
P.73<→次へ>
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
P.5
前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
P.6