Chat Noir -黒猫と私- Deux(2nd)
Cat №41 黒猫ライアー
その②
『黒猫ライアー その②』
浩一も平気で嘘をつく。
あんたいつからそんなに器用になった?
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その朝、チェシャ猫さんは一旦実家に帰って行った。
今日は月曜日だし仕事もあるしね。
私も大学に行って、
「ぅわ!朝都、どうしたの!!その顔…」と、のんきに登校してきた涼子に指摘され私はブスッ。
「あ・ん・た・が!!あんたが溝口さんと駆け落ちしちゃうからこんな目に遭ったんでしょー!!」
私のわけの分からない言葉に涼子は目をぱちぱち。
「あ、昨日のこと~?だったらドタキャンしてごめんね?話なら聞くからお昼にランチでもどぉ??」
「ランチじゃ遅いよ!今すぐカフェテリアで話聞いて!!」
私がいつになく真剣に勢い込むと、勢いに押された涼子はブンブン頭を振って頷いてくれた。
私たちは大学の敷地内を出て―――…
結局サボっちゃった一時限目…
まぁいいや。単位は十分に足りてるし。
と言うことで、少し離れた場所にあるおっしゃれーなコーヒーショップに移動。
一杯700円もするコーヒーを飲みながら、かくかくしかじか包み隠さず昨日のことを喋り聞かせた。
涼子は途中「ほ~」とか「へ~」とか相槌を打って面白そうに目をぱちぱち。
一通り喋り終えたところで、すっかりぬるくなったコーヒーを一飲み。
それは冷え切っていてもさすが700円だけあって、濃厚なおいしさが口の中に広がり、そのおいしさに私も一旦落ち着くことができた。
向かい側でカフェオレを飲んでいた涼子も一旦落ち着くと
「で…?黒猫くんとは本当にお別れしちゃったんだね」
と、確認してきた。
「これで樗木さんと付き合う。
そういう意味でいいんだよね」
再度言われて私は俯くしかできなかった。
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それでいい――――って言い方失礼か…
「そうする……」
私は何とか頷いてコーヒーを一飲み。それはさっきと同じコーヒーなのにやたらと苦く感じた。
「…苦っ」
思わずコーヒーに砂糖を入れると、
「あんた大丈夫?」と向かい側で涼子が心配そうに私を覗き込んできた。
何が―――……?
と、聞くほど私はバカじゃない。
大丈夫なんかじゃない―――
けど
大丈夫にするしかない。
涼子に相談しなくても心の中でそう決めていたのだ、私は。
本当は涼子に背中を押してもらいたかった。
「がんばれ」
て。
でも涼子は今回ばかりは―――背中を押してくれなかった。
彼女も何故だかその押す手を躊躇しているように思えた。
何かを考えるように視線を泳がせ、カフェオレを一口。
「こんなつもりじゃなかったのにな……」
と言う言葉をぽつり、漏らして窓の外の景色をぼんやり見ている。
それはこっちの台詞だよ。
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結局涼子と長々お喋りしてたから講義はまる1時限さぼりそうだ。
まぁ大して身にならない講義だったから……『人間健康科学』とか言うヤツで今は「アルコールとニコチンが及ぼす人体への影響」なんて題材で
その二つを止められない私が受けてもねぇ…
涼子は次の講義で学生実験が入ってると言うことでその準備であたふたと実験室に向かっちゃったし、
と言うことで残った時間を私は一人喫煙スペースでタバコをふかせていた。
そこでまたも
浩一に遭遇。
「よ!」
「よっ」
お決まりになった台詞で挨拶をして、お決まりの位置で並んでタバコを吹かせる私たち。
浩一の高い背で私の場所に影ができる。
浩一の―――愛煙しているセブンスターの匂いが心地よく香ってきた。
涼子は―――浩一が無理してるって言ってたけど、そんな風には見えない。
だって私が傷心中だということも知らず普段通り、気軽に喋りかけてくる。
テレビの話題、大学での出来事。最近出かけた居酒屋の話。
あとからあとからぽんぽん。
若干話を聞いているのが面倒くさい気はあったけれど、それでも全然無関係なことを喋ってくれるのはありがたかった。
「それでさ~…こないだ連れと言ったバーが雰囲気良くて」
浩一がそう言ったところで
ふわり
白衣の裾が風でほんの少し舞い上がった。
また―――
香ってきた。
こないだ浩一から香ってきた香水―――
浩一の使ってる香水じゃないレディースものが。
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私はちらりと時間を気にした。
今は午前の9時半過ぎだ。通常なら1時限目が残り15分と言うところ。
浩一もさぼり組みか。
朝からお盛んなことね。
何となく…想像できなくて(したくなくて)私はわざとらしく目を反らして空を見上げた。
突然顔を逸らした私に、浩一が不思議そうに目を細めて私の視線を追いかけるように顔を上げる。
「ごめん……喋りすぎた?俺―――……不自然だった……かな」
何を勘違いしたのか浩一に聞かれて、
「ん?ううん!」
私は慌てて答えた。ここではじめてまともに視線が合い
「お前…顔色悪いんじゃね?大丈夫…?」と心配そうに聞かれた。
浩一に心配されるほど、私は浩一にとってイイ女じゃない。
だって何に悩んでるか、何が悲しいのか未だに私は浩一に話せていないし。
妙な罪悪感が邪魔をして、私は本心を未だに打ち明けられないでいる。
「大丈夫。医務室なら行かないよ」
わざと冗談ぽく言うと
浩一も苦笑い。
「あんときはさー……悪かったワ。って前謝ったじゃん!」
と、浩一も調子を合わせてくる。
「お前、意外と根に持つタイプ??」
「そうかもね」
私は笑ってやった。もうなんとも思ってない、と言う素振り全開で。
そうじゃないと……―――少しずつ私の中の罪悪感をすり減らして、少しずつ友達に戻らないと
前のようには戻れない。
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「そいやぁこないだのツナ味の柿ピー食べたよ。おいしかった♪
ありがとうね」
「ん。そりゃよかった。また珍しいもん見つけたら買ってきてやるよ」
タバコの煙を吐き出し浩一が無邪気に笑う。
白衣のような白い歯を見せて。
私の中にまたも罪悪感が生まれて、心の中がもやもやと重くなった。
バイオハザードウィルスが変化を遂げて、進化したような―――そんな複雑な気持ち。
「でもさ……そうゆうのは〝彼女”にやってあげなよ」
私はことさらなんでもないようにタバコを吹かせながら浩一の方を眺めた。
浩一は私の方を見下ろしていて
「――――は?」
たっぷりの間を開けたあと、眉をひそめて問い返してきた。
「彼女なんていねーし。
俺が好きなのは――――…」
言いかけて浩一は不機嫌そうに顔を逸らした。
またも言い知れない罪悪感がよみがえってきて、でも今度のは一言で言い表せない複雑なものだった。
浩一の高い影が私を包み込む。
その影から逃れるよう、私は一歩横にずれた。
他の女の香りを纏って、まだ私に気がある素振りをする浩一。
あんたはいつからそんなに器用になったの。
それとも男って生き物はそもそもそうゆうものなの?
簡単に『大切な人になってください』と言った
チェシャ猫さんだって―――
ロシアン葵ちゃんの来訪を『知らない』と言い切った
黒猫だって。
何かしら秘密を抱えて、笑顔で言い切る。
いや、男に限らず女もそうか―――
黒猫のこと大好きなのに、気持ちを押し通すことなく別れを選んだ私。
黒猫と別れたことが浩一にまだ言い出せない私。
黒猫のことが忘れられないことをチェシャ猫さんに言っていない私。
いつだって本心を押し隠して、ただ流れに身を任せている卑怯な私。
浩一のこと、黒猫やチェシャ猫さんのこととやかく言えないよ。
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涼子が言ってた「無理してる」てのはやっぱり当たっていたみたいで
浩一だって他の女の子に目を向けようと今必死になってる最中かもしれない。
それなのに―――
それを邪魔するような私はサイテー女だ。
「あ、あはは!ごめん。勘違い」
強引に笑ってみたものの、浩一は今度は笑ってくれなかった。
「上野先輩~休憩終わりました??実験はじまりますよ~」
遠くで白衣を着た女の子がこちらに向かって手を振っている。
浩一は不機嫌顔のまま
「あ、うん」とだけ答え、せっかちにタバコを吸い終わると、乱暴な仕草でタバコの火を消し
「ごめん、俺実験残ってるから行くわ」
と立ち去った。
詰めた距離が―――またも遠のいた瞬間。
バカな朝都。
これでもう完全に友達同士には戻れないよ。
せっかく浩一が努力してくれてたのに。
私が全部―――台無しにした。
浩一の後ろ姿を眺めていると、浩一を呼びに来た女の子が僅かに振り返り
こちらに向かってきた。
明るい茶色い髪のサラサラロングヘアの可愛い女子だった。
「?」
首をかしげていると
「これ」
女の子はピンクのペンのようなものを私に手渡してきて
「〝浩一先輩”が真田先輩に返してきてくれって」
とにっこり笑顔を浮かべた。
こんなペン貸したっけ……
首をかしげていると
ああ!思い出した。確か入学早々浩一の隣に座った私が筆記具を忘れた浩一に貸したものだった―――
てかこの存在すっかり忘れてたよ。
私は「ありがとう」
ペンを受け取りながら、何でこの子が??とまたも首を傾げた。
「それじゃ、失礼します」
女の子は白衣を翻して、立ち去る。
その瞬間―――
女の子の白衣から、浩一から香ってきたレディースものの香水と同じ香りが―――
漂ってきた。
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――――
――
「なるほど、それはその子の牽制ですよ」
ビールを飲みながら人差し指を突き立てるチェシャ猫さん。
私は一日の講義を終え、研究室で実験レポートを作成していたけれど、
浩一とのもやもやが頭に浮かんで一向にレポートは進まなくて頭を抱えていたところ、チェシャ猫さんから電話があったのだ。
『今日、飲みに行きませんか』と言うお誘い電話。
正直月曜日だったしどうしようか悩んだけれど、一向に進まないレポートに向かってるよりはいいし、浩一との一件でもやもやしてたし
そもそもチェシャ猫さんとの距離を縮めようと決意したのは自分だ。
誘ってもらえるうちに行こう、と決めたってわけ。
連れてきてもらったのは大学の近くのおっしゃれ~なイタリアンのお店。
やたらと長い名前のパスタやらピザを頼んで、今日の私はカクテルを注文。
今さらだけど、ちょっとは女の子らしいところもあるってとこ見せておかなきゃね。
そのうち愛想つかされちゃったらやだし。
そして私はかくかくしかじかパスタを食べながら今日あったことを話し聞かせている最中だった。
「牽制って?」
ピンク色をしたやたらと甘いカクテルを飲みながら私が聞くと
「『私は先輩のことが好きなんです。だから真田先輩、彼に近づかないでくださいね』って言う」
「ぇえ!」
「それしかないでしょう。
僕が考えるに、その子の完全なる片思いですよ。彼の服や持ち物に自分の香水を掛けて
まぁ他の女避けにもなりますしね」
チェシャ猫さんはさらり。
そ、そーなのか!!
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「…てか樗木さん、詳しいですね…まさか」
「やったことはないですけど、されたことは―――……」
言いかけて「ごほん」チェシャ猫さんはわざとらしく咳払いをしてビールを一飲み。
あるだろうなー。
このルックスだしね。
イタリアンて言うと女の子が多いから、さっきから客の視線が痛いよ―――
ほとんどの子がチェシャ猫さんをチラ見、二度見、あ…中にはガン見してる子も居るし…
今さらながら不思議だけど、何でこんなにきれいな男の人が私??
うーん…分からなくて
私は二杯目に赤ワインを注文。やっぱこっちの方が合うわ。
「じゃぁ浩一は……付き合ってる人はいないってことですか…」
浩一のこと会ったこともない人に聞くような質問じゃないけどチェシャ猫さんならなんでも見通してそうだしこの際だから聞いてみた。
「そうじゃないですか?」
「えー!どうしようっ!私浩一にヒドイこと言っちゃった!!
そりゃ怒るのも無理ないわ」
私は頭を抱えて青い顔。
でもすぐに
「でもでも!普通気づかないってあります!?ほかの香水つけてたって」
「まぁ……あるんじゃないですかね……自分が香水つけてたら余計に」
「そっか…浩一香水つけてたもんな…」
独り言をもらしていると
チェシャ猫さんはゆっくりとテーブルに頬杖をつき、つまらさそうに目を細めた。
「真田さんはさっきからその彼の話ばっかり。
正直、僕は良い気がしないです。
いい加減僕のこと―――見てくれませんか?」
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いい加減――――………
そう言われて、はっとなった。
ダメね、朝都。チェシャ猫さんの前で浩一の話とか―――
けれど違う意味でもはっ!となった。
そ、それって口説き文句ってヤツ………ですか……
言われ慣れてない言葉に顔から湯気が出そうになった。
「あ、あの……」
何て答えていいのか分からずしどろもどろチェシャ猫さんを見上げると
「ははっ」
チェシャ猫さんは無邪気に笑い
「すみません、急に。つまらない妬きもち妬いちゃいました」
妬きもち―――……
「今日真田さんが僕に付き合ってくれたことだけでも、僕にとっては前進なのに
それ以上を望んじゃいました」
それ以上―――とな!
な、何を望んでいるチェシャ猫!!
警戒する意味で体を抱きしめていると
「真田さんがもう少しだけ僕の方を見てくれるといいなー…って」
見てますよ。
私はチェシャ猫さんを見るって決めた。
前を向くって決意した。
けれど
キラキラっ!
あ…眩しっ!!
そう
リアルにチェシャ猫さんを見つめられない理由―――それはチェシャ猫さんが美しすぎるからだ。
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――――
――
私、こんなんでチェシャ猫さんとお付き合い、できるのかな……
ましてや結婚なんて……
イタリアンを食べ終えて帰りのバスの中、二人席で揺られながら
私はバッグをぎゅっと抱きしめた。
まだ手帳には婚姻届が―――入っている。
チェシャ猫さんは昨日寝てないからなのか……それともよっぽど疲れてるのか私の隣で早々にねんね。
長い睫を伏せてこれまた美しい寝顔で、さながら眠り姫のようにスヤスヤお休み中。
気づいたら次がチェシャ猫さんの降りる降車駅だった。
チェシャ猫さん、次ですよ~
って意味でゆさゆさ揺すってみる。でもよっぽど疲れているのか全然起きる気配がなくって―――
眠り姫って……
王子さまのキスで目覚めるって―――言うよね?
この場合、私がお姫様でチェシャ猫さんが王子さまだけど。
この際どうだっていい。
キス
したらさすがに起きるかな…
今日の私―――大胆だ。
先を急ごうとして気だけが逸っているのかな。
でもそんなのどうだっていいや。
キス一つで気持ちが変わるのなら―――
黒猫のこと忘れられるのなら―――……
私はチェシャ猫さんに顔を近づけた。
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幸いにもこの時間帯、人は少なく私たちの前に会社帰りのサラリーマンぽい人が一人
あとは一番前の席で高校生の女の子が一人だけ。後ろには誰もいないし、誰も気づかないはず。
ごくり
喉を鳴らして
唇と唇が触れ合う瞬間…
『次は〇☓駅前~〇☓駅前~』
突如アナウンスが流れ、
ぱちっ
チェシャ猫さんは目をぱっと開けた。
ぅわぁ!!
ずさっ!
私は思い切り後ずさり。
チェシャ猫さんは寝起きの目を擦りながら、
「僕、このバス良く利用するんでどのタイミングで起きればいいのか大体分かるんです」
はあ……
「真田さん、今僕にキスしようとしたでしょ?」
そう聞かれて
ぎゃぁ!!気づかれてた!!!
私は顔から火が出そうな勢い。思わず顔を隠すように覆ってチェシャ猫さんをバシバシ叩いた。
「き、気づいてたんなら何かリアクションしてくださいよ!」
完全に私が悪いのに、私はチェシャ猫さんのせいにして彼を睨んだ。
「人が悪いですよ。からかって楽しんでたんだ」
完全にむくれて唇を尖らせると
「だって僕、真田さんとキスしたかったから―――」
チェシャ猫さんは私を覗き込んで、しれっとして言う。
へ――――……
「キス
しませんか」
え――――………
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いやいや!この場でっ!?このタイミングで!
私は車内を見渡した。当然ながらメンバーも座っている場所も変わらず…
「えっと…」
突然のことで何て答えていいのか分からず…私はすぐ近くに迫るチェシャ猫さんの整った顔を眺めるしかできなかった。
チェシャ猫さんの顔が近づいてくる。
ドキンドキン……
心臓が早鐘を打ち、私は思わずぎゅっと目を瞑った。
そのときだった。
キキッ!
バスのタイヤが軋む…急ブレーキの音が聞こえてきて、私たちの体は大きく揺れた。
「わっ!」
「ぅわ!」
二人して体を大きく傾かせ、私は咄嗟にチェシャ猫さんにしがみついた。
チェシャ猫さんも私を必死に支えてくれている。
『ただいまの急ブレーキ、大変失礼いたしました!』
バスの運転手さんの声が聞こえてきて、私たちは顔を合わせて目をぱちぱち。
「真田さん、どこか打ってないですか?」
「どこも。樗木さんこそ…大丈夫ですか?」
「僕は大丈夫です……」
「ふっ」
何だか唐突に笑えてきた。だって私たち―――キスしようとしてたんだよ。
そのタイミングで急ブレーキとか……
「ははっ」
チェシャ猫さんも笑った。
私たちは笑い合い、そして
手を繋いだ―――
きっとバスの急ブレーキは私へのブレーキだったに違いない。
神様が……
私に「まだ早い。まだそのタイミングじゃない」って言ってくれたんだ。きっと―――
絡めた指先から、チェシャ猫さんのぬくもりが伝わってきて
「今度こそ、
俺があなたを守れた」
チェシャ猫さんはちょっと嬉しそうに手に力を入れてきた。
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―――守られた。
守ってくれた―――
いい加減気づいた。
私が望めば、きっとこの人は―――ずっとずっとこの手を離さないでいてくれるだろう。
チェシャ猫さんのこと―――信じても大丈夫。
全部この人に任せて委ねよう。
そう決意した。
――――
それから月日は流れ、クリスマスもあと半月に迫ったある日のこと。
今日はチェシャ猫さんと三度目のデート。
それまで大学の帰りや、チェシャ猫さんの仕事の帰りに二人して飲んだことはあったけれどちゃんと休みの日に一日デートってのは、あのお好み焼きデート以来はじめてだった。
実に二週間も経っていて、その間―――
黒猫のことを忘れることは
正直できなかった。
たった二週間で忘れられるほどの記憶じゃない。
会わなければ気持ちは薄れていく、そう思ったけれど私が甘かった。
ペルシャ砂糖さんの手紙事件のことは早々忘れることができなかったし、気が付けば彼女の身の安全を案じている。
それを考えると、引っ張られるように黒猫のことも思い出す。
この頃…日に日にその想いが強くなってきた。
黒猫の飼い主に戻りたい。
気づけば街は緑や赤、ブルーや白のクリスマスカラー一色で、女の子たちは薄手のトレンチコートからふわふわのコートに代わっていた。
私もその一人。
でもコートは変わっても不変的なものはまだ私の中に存在する。
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「コート可愛いですね」
会ったその瞬間、チェシャ猫さんは私の白いコートを指さし。私も自分で気に入っている。
スタンドカラーのAラインコート。丈は短めで襟と袖にふわふわのファーがついている。
お気に入りのコートにお気に入りのブーツ。
涼子に借りっぱなしになってる……と言うか涼子が「それ朝都に似合うからあげるわ。ちょっと早いけどクリスマスプレゼント♪」てくれたグロスをぬってメイクもしっかり。
今日の私は完璧なはずなのに、心のどこかにぽっかりと隙間ができている。
完璧なパズルを完成させるのは、もう一つピースが―――足りない。
でも足りないピースを探しているより、その隙間を埋めてくれる人の方が今は大事。
―――私は今日もチェシャ猫さんの車の助手席に当たり前のように座る。
「真田さんが見たいって言ってた映画…すみません、僕時間調べ間違えちゃって」
「いえ、大丈夫です。お気になさらず」
そう言ったけれど―――
「これ」は気になっちゃうよな―――
私は座った際におしりに小さな痛みを感じて、そのとき何かが落ちていることに気付いた。
“それ”をチシャネコさんに見せることなく今は私の手の中。
助手席に落ちていたもの―――
それはシンプルなデザインの
ピアスだった。
チェシャ猫さんの―――……?
一瞬そう思いたかったけれど、チェシャ猫さんの耳にピアスホールはない。
それにこれ
デザインが女ものだ。
可愛いデイジーの花の下、滴のようなダイヤがゆらゆら揺れている。
あの――――ピルケースと同じデザインで
私の心の中にざわざわと嫌な何かが首をもたげた。
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過去形なのか現在進行形なのか、どっちか。
英文法じゃないわよ?
チシャネコさんに女の影―――
デザインがレディースだし、そもそもチシャネコさんの耳にピアスホールはない。
私もこんなデザインのピアス持ってないし。
五年は彼女が居ないって言ってた―――
それにこないだ乗ったとき、こんなピアス落ちてなかった。
妹―――…は居ないし、母親がするようなデザインでもない。
じゃぁ友達??
“友達”と言う考えに引っ掛かりを覚える。
『チヅル』
その名前は今の今まで忘れかけていたのに、ピアス一つで簡単に鮮やか過ぎるほどに
私の頭の中に蘇った。
その後、ちょっと小さなテーマパークっぽくなってるシネコンに向かったけれど
楽しみにしてた映画はちっとも楽しくなくて、
お茶をしてもちっとも会話がはずまなかった。
結局その日は特に何かをするわけでもなく夜の22時に「さよなら」
ピアス
持って帰ってきちゃった。
―――――
次の日の日曜日。
私は涼子と久々デート。
今日はクリスマスプレゼントを一緒に選びにきたってわけだけど。
メンズの洋服のショップでマフラーを手に取りながら
「で?どうよ、最近」
涼子はまるでおっさんが若いOLにセクハラ発言をするかのような口調で聞いてきて
すぐにそれがチェシャ猫さんとのことであることに気づいた。
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「どうって…変わらずだよ。進展もなければ後退もないかな…」
私はチェシャ猫さんに似合いそうなワイン色のマフラーを手に取ってしげしげ。
涼子にはこないだのピアスのこと言ってない。
私は話題を変えるように
「涼子は溝口さんにクリスマスプレゼント何あげるの?」
とわざとらしく聞いてみた。
「私?手作りケーキと手作りの御馳走♪」
「涼子は何もらうつもりなの?」
「新しいバッグー♪すっごい可愛かったけど高くて自分じゃ買えなかったんだ~♥」
…………
「涼子…いつからそんな悪女キャラへ??」
「冗談に決まってるでしょ?まだ決まってないの。だから朝都と選びに来たわけ」
何だ。
溝口さん涼子に貢がされてボロボロになって捨てられればいい、とかちょっと願ったりしたけど。←朝都が一番悪女キャラ。
って…私病んでる??
こないだのピアスの発見からちょっとおかしい。
人の破滅を願うなんて、前には考えなかったことなのに―――
早くこのもやもやを何とかしたい。
このもやもやを解消するには―――やっぱり直接本人に聞くしかないのかなぁ。
はぁ…
小さくため息を吐いていると
「分かる~メンズものとは言え高いよね~あ、これ溝口さんに似合いそう」
と涼子は何を勘違ったのか、深い青色のネクタイを手にとってすぐ隣でうんうん頷いている。
涼子の研究室は教授の意向でバイト禁止なのだ。見つかったら単位取り消し、と言うでっかいペナルティーもある。
何でも学生には研究に没頭してほしいとか。
その代わり教授の実験のお手伝いとか学会への付き添いの際には微々たるものだがバイト代が出る。
「私は院生としても残るし、まだ貧乏生活が続くわ~。まぁ実家だからそれほどお金もかからないけど」
涼子は小さくため息。
「早く結婚しちゃえば?」
溝口さんと。
「んー…」
と涼子は気のない返事。どことなくその横顔に元気がないような。
そう考えたらいつも美人オーラでまくりの涼子、ちょっとの間でやつれた??
「どうしたの…?」
思わず聞くと、
涼子はネクタイをぎゅっと握りしめ
「最近アキくん(溝口さんのこと)……変なの…」
突然涼子は今にも泣きそうに瞳を揺らした。
P.279<→次へ>