七回目の満席
『空席のダブルベッド』
―――あれから七年。
毎年のように送られてくるチケットと部屋ナンバー。
どのツラ下げてこれを送り続けてるのか知りたかったけれど、私には知る術もない。
事務所に電話を掛けて禅夜を出してもらおう、なんてみっともないこともできなかった。
結局、七年の間そうやって過ぎて私の状況も代わった。
その七年間でPlaceは順調に人気を高めていき、今や彼らの登場を見ない日はないほど大きな存在に変わっていった。
日に何本もCMを見るし、レギュラーで受け持っているバラエティー番組もできたし、メンバーの中には俳優業としてドラマで活躍する者もいる。
ただ禅夜はやはり歌で活躍したいのか、そう言った華々しいテレビの世界にはあまり顔を出さず、メンバーの中でもミステリアスな人として言われている。
ミステリアス…どころかちょっとズレてて、生意気で、可愛いとこもあって―――
その一面を知ってるのは私だけ。
それだけが私のちょっとした自慢。
バカみたいだけど、得意げになって自分の中で彼の存在だけが幻のように大きく膨れ上がる。
そうやって三十は目の前。
七年目、この年を節目としてコンサートに来た。
けじめをつけるため。
今日が終わったら―――
辞表を出そう。
がんばるのを諦めよう。
P.42
ライブも半ばになると、MCが入ったりと、ちょっとだけ落ち着いた雰囲気。
『こんばんは~!!Placeです!』
メンバーの声に
「キャァァアアアア!」
一向に衰えを見せないファンの子たちの歓声がホールを響かせた。
メンバーそれぞれ簡単な自己紹介、そして近況などが報告された。
ときおり笑いが起こるほど和気藹々としていて、その会話の中ゼンはやはりイメージとして貫いてきた「クール」を装っているのか、ほとんど口を開かなかった。
何よ、かっこつけちゃって。
クールぶってるけど、私は…私だけは本当の禅夜を知ってる。
良く喋るし、良く笑うし、ちょっとズレてるし。
てか天然??
可愛いとこ、た~くさんあるって知ってるんだから。
『え~、今日は特別にゼンから贈り物です!』
リーダーのアオイがマイクで伝え、場内がまた暗くなった。
「「え!何なに!?」」
方々でファンの子たちの声があがり、いつの間にかステージに立っていたのはゼンだけになった。
明るいスポットライトだけが彼を照らし出し、彼は椅子に腰掛け、アコースティックギターを持っていた。
「ゼンてギター弾けるの!?」
「うっそ!超貴重じゃん!はじめて見るよ」
女の子たちがざわざわと賑わいだした。
私もはじめて見る―――
彼はアコギを抱えながらスタンドマイクを引き寄せ、
『大切な人に贈ります。感謝を込めてあなたに』
スタンドマイクを引き寄せて息を吸い込むと、禅夜はギターをかき鳴らし、
美しい弦の和音に乗せて歌いだした。
P.43
~♪
『Happy Birthday to you~♪』
「え…誰の誕生日!?」
会場がざわざわとざわめいて、私は思わず口を押さえた。
嘘……
だって知らないはずよ。
あのチケットの日付も、ただの偶然だと思ってたのに…
バースデーソングが終わっても、禅夜はギターをかき鳴らしうまく次の曲へと繋げる。
~♪
『君に出会えて良かった。
君が生まれてきてくれて良かった。
死ぬまで会えなくても僕らは再会する運命。
運命のサークルが僕らを引き寄せ、
短い夜
僕らは必ず再会する。
そう信じて良かった。
僕は君に助けられて、今ここに存在する。
君が翼をくれたから、君の一言が僕を奮い立たせてくれたから。
ようやく言えた。感謝の気持ちを。
今
たくさんの“ありがとう”を君に。
君がくれたもの、僕は大切にしてるよ。
だから今度は僕が君にあげる番。
必要とされてない、なんて寂しいこと言わないで。
僕が君を必要としている。
今
僕の胸に。
ここにおいでよ。
ここが君の居場所だ。
僕はいつでも待ってる。
ここが君の“Place”(居場所)だ」
サークル…それは「環」を意味していて、夜は「禅夜」を言い表しているんだ。
禅夜―――
相変わらず……
大胆なんだから。
こんな何千万といる中で堂々と―――
もう
十分だよ。
もう十分、夢を見させてもらった。
こんなにも幸せで愛に溢れている。
P.44
それは聞いたことのない曲、おそらく新曲か何かなのだろうか。
ゆっくりとしたバラードに合わせて、会場の中、ペンライトの光が左右に揺れる。
~♪
『君は笑うかもしれない。
だけどほら、
今
君をたくさんの光が包んでいる。
暗かった君の心を光で包み、冷たい手をとって僕がこの手で温めたい。
たくさん待たせた分、たくさん待った分
愛を込めてその手を』~♪
曲の終わり、禅夜はギターを鳴らして立ち上がり、ゆっくりとお辞儀をした。
「ゼンっ!ゼンーーー!!」
すぐ近くで禅夜を呼ぶ女の子が居て、私は慌てて涙を拭った。
『ありがとうございました~!ただいまの曲はゼンの即興…と言いたいところですがぁ、
実は七年前から温めていた曲みたいです』
アオイが説明をくれて、気付いているのだろうか私の方をちらりと見た。
七年前と代わらない様子で小さくウィンクを飛ばしてきて、周りのファンの子たちが
「キャー!!アオイっ!」
と手を振っている。
『ゼンが会場のみなさんに贈るラブバラード、みなさんの心に響くのを願っています』
響いてきたよ、ここに。
私はそっと胸を押さえ、
『七年間、この曲が世に出るのを
僕らメンバーは待たせられましたよ』
アオイは意味深に苦笑。
私も苦笑。
待たせてごめんなさい。
でも
今日会えて良かった。
P.45
七年前のように、チェックインを自分でして部屋に入る。
七年前と同じ部屋―――
何も変わっていないその部屋を見て、そこだけ時間が止まっているように思えた。
でもそれは錯覚なのだ。
私は最初から彼を待つ気ではなく、七年前と同じようにヒールの靴を投げ出し、今度はゆっくり時間を掛けて風呂に浸かった。
七年間と言う年月は確実に私の中に変化をもたらし、彼の登場を夢みる若い恋心はもはや薄れている。
好きじゃない、とかそうゆう理由ではないけれど、半分以上諦めているのだ。
あんな熱烈なラブソングを貰っていながら、それすら夢のような出来事のように思えて
冷え切った部屋に入って目が覚めた。
彼は私と別世界の人間。そんな人がわざわざ時間を割いてまで私に会いにきてくれるわけない。
気づいたら、もう夢すら見ないほど歳をとっていた。
コンサートで疲れた足を癒すために、マッサージをしながら。
バスルームの扉は締め切って。
P.46
シャワーからあがって、一人の部屋でのんびりテレビを見ながら買ってきたビールを飲む。
くだらないバラエティ番組が終わり、持ってきたノートPCを開いて私はテーブルで仕事をはじめた。
これが最後の原稿になるかと思うと、自然力が入る。
「今日の一枚」は誰か分からないけれどアマチュアカメラマンが写した、白い壁に木製の椅子が一つだけ。
赤いビロードを敷き詰めた椅子が白い壁の中、どこかアンバランスに浮き上がっている。
いつもは風景画を載せるけれど、この椅子に何故か目が留まった。
いつも私は…私たちは空席を埋めたかった。
今となってはそれはすれ違いなのかどうか分からない、けれど
その席に座ってくれることを願っていた。
今私が望んでいる席。
それは彼の胸の中、腕の中、心の中―――彼の特別席に座りたい。
私の特別席は七年間、ずっと空席のまま。
願わくば、彼がその席に座ってくれることを―――
そんな思いで原稿を書いていると、
テレビはいつの間にかニュースに変わっていて、表示されていた時間を見ると
23:56
になっていた。
「やっぱり来ない……かぁ」
諦めてパソコンを閉じようとしたそのときだった。
それほど大した失望なんてない。
これで良かったのだ。七年目のけじめをつけるには現実を知るのが一番。
私は空になったビールの缶をゴミ箱に放り入れ、二本目の缶を冷蔵庫から取り出した。
ピンポーン…
部屋のインターホンが鳴って私は思わず目を開いた。
P.47
ピンポーン。
部屋のインターホンはまたも鳴り、私は立ったままその場で硬直。
誰…?
もしかして。
と言う期待があったけれど、期待するとバカを見る。
期待のあとに残るのは虚しい消失感だけ。
どうせルームサービスの間違いかなんかでしょう。
ドアスコープから確認することもせず、ただチェーンはつけたまま
「はい」
私は扉を開いた。
僅かに開けた隙間から
「ルームサービスです」
そう言われて僅かな隙間から赤い薔薇の花束の先が見えた。
やっぱり間違い……てかルームサービスで薔薇の花束頼む人ってどんな人…
そう思ったけれど、
この独特のテノール……
私はチェーンを外して大きく扉を開けると
キャップを目深に被った禅夜が大きな薔薇の花束を手にして
「間に合った」
と肩で息をしながら七年前と同じ笑顔でにっこり笑っていた。
P.48
「え……?」
「入れて」
彼は切れ切れの息で、かすれた声で何とか言い、わけも分からず私は彼を迎え入れ扉を慌てて閉めた。
走ってきたのだろうか、それともライブの名残だろうか、キャップを取って軽く頭を振ると彼の額には大粒の汗が浮かんでいた。
七年前と同じ香水と、爽やかな汗の香り。
「どうして……あんた違う部屋でしょ?大丈夫なの、こんなところに来て」
七年目に交わす言葉だと言うのに、感動とか緊張とかすっ飛ばして、思わず七年前と何一つ変わらない口調で彼を咎めた。
可愛げのない女だと思われるかもしれない。
けれど彼は気にした様子でもなく
「環変わってないね」
片目を閉じて小さくウィンク。
違う部屋ナンバーが載ったカードキーをさっと掲げ、そのカードキーにチュっと口付けをすると
彼はそのカードキーを指で弾いて、ゴミ箱に投げ入れた。
「俺の部屋なんて今日は必要ないし。
ここが今日過ごすところ」
甘い言葉とは反対に無邪気に笑った禅夜はテレビに目を向け
「今日の終わりをお知らせします。10、9…」
付けっぱなしにしていたニュースからキャスターがカウントダウンをはじめる。
「ヤベ」
彼は急に慌てだして床に膝まづくと、薔薇の花束を私に向けた。
え…!
分けもわからず目をまばたいていると
:♪*:・'゚♭.:*・♪'゚。.*#:・'゚.:*♪:・'.:♪*:・'゚♭
~♪「Happy Birthday to you~
Happy Birthday to you~
Happy Birthday Dear Tamaki~」
.:♪*:・'゚♭.:*・♪'゚。.*#:・'゚.:*♪:・'.:♪*:・'゚
P.49
彼はアカペラでバースデーソングを歌ってくれて、薔薇の花束を私に突きつけてくる。
言い表せない感動と驚きに目をまばたいて、思わず涙が目頭に浮かぶ。
あのチケットはただの偶然だと思った。
だって彼が私の誕生日を知るはずなんてないし。
「どうして……私の誕生日を…」
「環のアシスタントから聞いてて知ってた。今あの人、人事部に居るんだって」
アシスタント…ってああ…
「三十歳♪」
彼は立ち上がり、大きな目を細めて私の頭をぽんぽん。
「歳のことは言わないで」
思わず唇を尖らせて、彼の眉間に指をつきつけると七年前と変わらない仕草で寄り目。
でも次の瞬間片目だけを細めて眉を動かす。
「環は変わらずきれいだぜ?気にすることなんて何もないし」
きれい
……私より整ったきれいな顔立ちした男に言われるのはいかがなものか。
でもそのきれいな顔は真剣そのもので、「きれい」と言われるのを素直に受け取っておくことにした。
「ふー、あちぃ。ライトとダンスのおかげでめちゃくちゃ汗掻いた。
シャワー借りていい?」
そして彼も何事もなかったかのように普通。
七年前の言い訳も何もせずにもう長年も付き合ってる友人のように気軽に。
私が何か言う前に彼はマイペースにバスルームに入っていき、私は呆然としたまま彼が出るのを待つしかなかった。
P.50
ちょっとズレてるのは分かってたけどね。
なんて言ったってアイドルさまだし。
でも
何なのあいつ、何なの…
寝る前のナイトクリームを顔に塗りながら私は大きな鏡台の前でブツブツ。
薔薇の花束やアカペラのバースデーソングに一瞬気を取られたけど、まるで自分の部屋のように自由だし、
そもそも七年前何故来なかったのか理由を言え!つうのよ。
「独り言?」
いつの間にシャワーからあがってきたのか、
鏡の中に禅夜の姿が映っていた。
出会った当初は黒い髪だったのに、今はアッシュ系の茶色い髪に一房、鮮やかなゴールドのハイライトが浮かんでいる。
その髪がしっとりと濡れていて、シャワーからあがったばかりなのかバスローブ一枚を身にまとっただけの彼からシャンプーの香りに混じって、七年前にはなかった大人の色気が香ってくるようだった。
老けた、と言う印象は少しも浮かばなかったけれど、代わりに七年の歳月が不思議な色気を彼に与えたようだ。
ドキリとして、バスローブから覗いたくっきりとした鎖骨から目を逸らし、私はそれに何も答えず
「ちゃんと髪を乾かしなさい。じゃないと痛むわよ」
とそっけなく答えながら手を動かせた。
七年ぶりに会話を交わしたって言うのに、情熱的なことを言えないのは可愛くない女なのか
それとも七年前の言い訳すらしない男に腹を立てているからか―――
でも本当のところは
これで彼に対する気持ちが冷めてくれれば良いと思った
けれど
思いがけない彼の登場に、緊張している。
ちらり、とテーブルに乗せた大きな赤い薔薇の花束を見つめる。
何本あるんだろう。
きっと五十本以上あるだろうな。
マネージャーか誰かに用意させたのだろうか。
疑われなかっただろうか、咎められなかっただろうか。
嬉しいのが半分、余計な心配が半分。
私の中は複雑だった。
P.51
クリームを塗り終わって立ち上がると、すぐ背後に立った彼が私の後ろから腕を伸ばしてきた。
彼の胸の中に収まる形になって、彼は壁に手をつく。
「ごめんね、七年前のこと」
「謝らないで。惨めになるから」
かろうじて言えた言葉は震えて、彼の耳に届いたかどうか分からなかった。
「あのあと急な打ち上げがあってどうしても外せなかった」
プロ意識を持ちなさい、と言ったのは私だ。
彼を咎められることはできない。
本当のことだったら―――
「どうしたら許してもらえるかな」
「さぁ……知らない。自分で考えて。
もう子供じゃないんだから」
そっけなく言って彼の腕から逃れるようにもがくと彼はもう片方の腕を伸ばして壁に手をつき
完全に私を彼の胸の中に閉じ込めた。
「じゃぁ歌う。
俺の今できることと言えば―――歌うことしかないから」
P.52
.:♪*:・'゚♭.:*・♪'゚。.*#:・'゚.:*♪:・'.:♪*:・'゚♭
~♪
逃げ出したい。
そう思っていたあの日に僕らは出会った。
翼をもがれて、飛べない僕に君は羽根をくれた。
空へ―――と、背中を押してくれた。
それなのに、
あの日行けなくてごめん。
約束したのに。
でも君のことは忘れたことは一度もない。
僕は人が思うほど強くない。
君も人が思うほど強くない。
信じてほしい。
君が僕の前だけ見せてくれる弱いところが可愛いと思い、
そして迷って立ち止まっていた僕の背中を押してくれて
僕は一瞬で恋に堕ちた。
弱いのか強いのかアンバランスな君が魅力的だ。
あの日の言い訳を何も言えずに今まで来てしまったのは、僕が弱い人間だから。
君に嫌われたらどうしよう。
君が僕以外の男に恋をしたらどうしよう。
臆病な僕はあのときから何も変わっていない。
だから
君に再会できたら言おう。
君に背中を押してもらうのではなく、自分自身で一歩を踏み出すんだ。
“好きだよ”を。
僕の空席を埋めて、君の空席を埋めたい。
僕らはたがいに空席を埋めあい、完全になれる。
そう信じて
飛び上がりたい。
~♪
.:♪*:・'゚♭.:*・♪'゚。.*#:・'゚.:*♪:・'.:♪*:・'゚♭
P.53
それはさきほどのホールと同様Placeの曲でも聞いたことのない曲だった。
彼のアカペラの歌から紡ぎだされるメロディーは優しいテノール。
高音が最高に美しくて、低音はくすぐるように甘い。
その甘く痺れるような歌声に乗せた歌詞は、私の脳さえもトロトロに溶かす。
ホールで聴いた曲も良かったけれど、たった一人…目の前で私だけに歌ってくれる歌は
特別感がさらに増して、もう小さなことにこだわっていた自分がばからしくなってくる。
すぐ背後に迫った彼の肌と、密着した私の背中が熱を持ったように熱い。
目頭と目じりが熱い。
「ぜん……」
振り返って彼を見上げると
「間に合わないかと思った。
もうダメかと思った」
彼は今にも泣き出しそうに瞳を揺らし、私を見下ろしていた。
私は彼の頬に手を伸ばすと、そっと撫でた。
すべすべときめ細やかなその肌は手のひらにそっとなじむ。
まるで撫でられるのを待っていたかのように。
彼はそっと私の手を握り返し、
私の顔に近づいてきた。
彼よりも私の方が早く、涙を流した。
その涙のしずくをぬぐいながら彼は私にそっと口付け。
出会って七年。
惹かれて想って、恋をして―――
禅夜とのはじめてのキス。
その熱い口付けはかたくなで冷たかった私の心を溶かす。
彼は別世界の人で私には手が届かない人だったと思っていたけど
でも今は一番近くに居る。
P.54
手を伸ばせば彼の肌に触れられる距離。
彼の熱を持ったような熱い手が、私の足を撫でられる距離。
口付けを交わし、互いの脚を絡ませて
翼をくれた、と言うその背中に手を這わせるとさらさらと心地よかった。
ミルク色のローブが滑って彼のむきだしの肩を撫でると、彼は三日月のように目を細めて
くすくすと甘い囁き声で私の耳元で笑う。
彼の手がせっかちに私のローブの合わせ目に侵入してきて
「もう俺のものだから」
彼は勝気にそう言って目を伏せるとふっと口元に淡い笑みを浮かべた。
「それはこっちの台詞よ」
彼のファンは何万と居るけれど、この瞬間だけは私のもの。
繋がる瞬間彼は言った。
「俺はマジだよ」
「……うん」
久しぶりの侵入に痛みと心地よさが波のようにやってきて、頭がおかしくなりそうだ。
ベッドが軋む音が静かな部屋に響いて
限界に達する間際に彼はまたも言った。
「環、俺と―――――………」
何も考えられない快感の波に支配され、私は彼の言葉を聞き取ることができなかった。
それでも条件反射に
「うん」
それだけ答えていた。
P.55
――――
――
禅夜、想い出をありがとうね。
あなたのおかげで冷たい手が暖かくなった。
あなたのおかげで短いけれど夢を見ることができた。
朝目が覚めたらあなたが居なくなってること―――
ダブルベッドの一人分が空いていて、冷たくなっていようと
私はもう失望しない。
それで新しい一歩を踏み出せると思えば
この一夜は良い経験なのだ。
――――
――
「……ん」
瞼の向こう側が徐々に明るくなったことに気づいて、私はうっすらと目を開けた。
いつの間にか眠っていたようだ。
「モ~ニン♪」
目の前には……
朝日より眩しい禅夜の極上の笑顔。
は……!!?
分けも分からず私は寝起きの目をまばたいて、これが夢じゃないことを確かめた。
「何で!」
何で居るの!!?
P.56
「何でっ…って。それが恋人とのはじめての朝のはじめて交わす言葉かよ」
禅夜はちょっと面白そうに片目を細めて笑う。
「てか私たちいつ恋人になったの」
「え!違うの…?いつって昨日だけど」
やっぱりズレてるし。
「だって俺言ったじゃん。この部屋に来てくれたらOKと受け取るって」
聞いたけど…
でも七年前の話だし、第一あれはその場の軽い言葉かと思ってたのに。
「いえ…帰ったかと思って…」
「はぁ?何それ。俺ってそんなひでぇ男に見える?
三田とは違うぜ」
三田……ああ、いたわね、そんな男も。
「いえ…でもね」
禅夜はいつも私の予想外の行動を取る男だったけれど、最後の最後まで予想外だった。
「か、帰らないと怒られない??マネージャーさんとかに…」
髪を掻き揚げて心配そうに禅夜を眺めて―――
気づいた。
私の左手薬指に見覚えのない大きなダイヤの指輪が光ってるのを。
「え―――………」
目をまばたいて朝日に反射してキラキラ輝くそのダイヤモンドを見つめていると
「夜、環―――『俺と結婚してくれる』って言ってくれたじゃん」
け、結婚んんんん!!!
「い、言ったぁ!?」
思わず自分を指差すと、彼は片目を…以下略。
とにかく説明するのも面倒なぐらい私は驚いている。
「俺と結婚してくれる?って聞いたら、
『うん』て。
ひでぇ。あれ嘘??」
禅夜は顔を覆って泣きまね。
た、確かに最後に『うん』て頷いたのは覚えてる…けど。
あれ、プロポーズだったの!!
P.57
禅夜はまだ驚きを隠せないでいる私の肩をぐいと引き、私はあっけなく禅夜の胸の中。
「環の夢をかなえられるのは俺しかいないよ?
マンション買って、元カレに『幸せよ』をアピール。
でも本当は寂しい。
小さなアパートでもいいから環を必要としてくれる男とずっと一緒に暮らすって。
だからつまらないこと考えるのはやめろよ」
つまらないこと……?
目をまばたいていると禅夜はいつの間に抜き出したのか、私が書いた『辞表』をひらひら。
「ちょっ!何勝手に漁ってんのよ!」
思わず取り返そうとしたけれど、その辞表を禅夜はゴミ箱にぽいっ。
「お金貯めてマンション買うんだろ?
でも隣で支えられる「誰か」が居たらもっと楽になるよ。
俺も環の「支え」を必要としている。
七年間空席だった俺の空席を
埋めてよ」
P.58
ぎゅっと肩を抱き寄せられて、
「このアイドルさまは……」
私は小さな声で独り言。
「ん?」
彼には聞こえなかったみたいだけど、
「ううん♪何にも。
嬉しすぎて涙が出そうって言ったのよ」
「ホントかよ」
禅夜は疑わしそうにしてたけれど、
「一つ聞いていい?」
真剣な顔で聞かれて、私は唇を引き結んで「何?」と目だけを上げた。
「ケータイナンバー教えて」
「私も教えて。岩本 禅夜って本名」
「本名」
私たちは顔を合わせて思わず笑った。
「なんか色々順番が狂ってるけど、いーや。
だって今日から環が俺のお嫁さんだから」
無邪気に笑って私をさらに引き寄せると禅夜はその印象的な目をゆっくりと閉じた。
「今日は昼までオフなんだ。二人でゆっくり寝ようぜ」
「うん」
ダブルベッドに二人、
ようやく埋まった席を確かめるように私たちは抱き合って
眠った。
望めば、わたしの席にはあなたの姿。
これからは二人―――
ずっとずっと。
七年よりうんと永い永遠と言う月日を
これからは二人。
……と言いたいところだけど、
「……でも、何で私の薬指のサイズ知ってたの?」
「ああ、だって七年前のインタビューで握手交わしたじゃん?そのときリサーチ♪」
リサーチ…って…
やっぱり分からないわ
私のアイドルさまは。
~END~
P.59
冬の夜
キミへの気持ちを窓に託しました
たった一言が言えない私は臆病者ですか?
でも今はこれが精一杯
雪に想いを
『次はお天気コーナーです。今日から明日にかけて低気圧が日本の南を発達しながら東北東に進み、明日には日本の東に進む見込みです。
関東甲信地方では今夜から雨が次第に雪に変わり、あす午前中にかけて山沿いを中心に、平野部でも積雪となる所がある見込みです。雪による交通障害、架線や電線、樹木等への着雪、路面の凍結に注意してください』
今朝のワイドショーのお天気キャスターの言葉を思い出したのは、勤めている会社の定時を迎え業務を終えたときだった。
「えー!やだっ!雪降ってるじゃん」と誰からともなく声が挙がり
「ホントだー、私傘持ってきてない」
「どうりで冷えると思った」
と同僚たちが次々と口にする。
またも誰かが「せっかく彼氏に買って貰ったバッグが濡れちゃう」と言い出し、それでもちっとも困った様子ではなく、どこか誇らし気だ。
そしてその周りの女子たちが盛んに羨ましがる。
「いいなー、でもあたし今度のクリスマスにダイヤの指輪ねだっちゃうんだー」と一人の女の子。
「いいなー!」黄色い声に、私は苦笑いを浮かべるしかない。ここでの男の年収と、女の品格は反比例する。いかにいい服を着るか、いかにいいバッグを持つか、いかにいい男を彼氏にするか、年中こんな会話でうんざりする。
かと言って輪に加わらないわけにはいかない。仕事とプライベートの内容こそ比例するのだ。
P.1
「仁科《にしな》さんはいつも素敵な服着てますよね」ふいに一人から話題を振られた。
「えっ、そう?」私は曖昧に笑って言葉を濁した。今日の服装は白いタイトワンピ。腰回りに太いベルトが巻き付いていて、ちょっと豪華に見えるゴールドのバックルがワンポイント。
そして同じくゴールド系のスパンコールが襟元に入ったコートを腕にかけて帰りたいアピール。
シンプルな服装だったけど、流石は目が肥えている女子たち。すぐにそれが高価なものだと見破った。女のチェック程厳しいものはない。私がオシャレをするのは対、男ではなく、彼女たちの為。
「仁科さんてぇ、結婚しないんですかぁ」間延びした話し方が赦されるのはこの年代の特権だ。
「結婚ね……相手がいないから」私は適当にごまかして再び言葉を濁した。
こう言っておけば大抵の女は引き下がる。私が長い間、人付き合いをしてきて、これが最良の方法だと知ったのはつい最近のこと。
私がこの会社に勤めはじめて五年になる。この会社での女性正社員では長いほうだ。後から派遣された若い女の子たちから見れば私なんてお局のようだった。
「そう言えばぁ仁科さん、この前見ちゃったんですぅ」一人の女の子が思わせぶりに口元へ手をやった。
短く切った髪にはパーマがあててあり、傍から見ればマシュマロのように可愛らしい女の子だ。
だが、そんな可愛らしさに惑わされてはいけない。女はいつでも顔の下にしたたかな一面を隠しているのだから。
P.2
「何を?」私は平静を装って取り澄ました。
もしかして“アイツ”と居る所を見られた?と思ってドキリとしたが
「この前の金曜日、青山のイタリアンレストランで、経理の前田さんと一緒にいるところぉ」
ああ、そっちか。とちょっとほっと安堵する。
「ええー!!」周りから黄色い声が飛ぶ。私は思わず頭を押さえたくなった。
そう、確かに経理の前田に誘われて先週の金曜に青山まで行った。
でも食事をしただけで、別に艶かしい関係ではない。だが、ここで重要なのが、経理の前田という男、この会社ではなかなかのハンサムでしかも独身、きさくな性格をしているわりには頼れる上司でもあるのだ。そうゆう男を若い女性社員が放っておくわけがない。
「いいなー、ねえお二人って付き合ってるんですか?」
食事をするイコール男女の関係と、どうして若い子たちはそう短絡的なのだろう。私はこの場から逃げ出したくなった。だけど、この場から立ち去ると認めたことになってしまう。
「別に、ただお食事に誘われただけよ」
「うそー、絶対前田さん仁科さんのこと狙ってるわよぅ。だって、あたしたちがいくら誘っても全然だったのよー。それなのに前田さんは仁科さんのこと」
嫉妬心と羨望の眼差しで見られ、私は思わず後ずさり。
何とか前田との話を切り返し、従業員出入り口から女子の群れに混ざって出てきた所だった。
遠くで派手なエンジン音が聞こえてきて、この狭い路地裏へと近づいてきた。この聞き慣れたエンジン音。私は嫌な予感がして思わず一方通行の標識を見つめた。
「よーう、仁科」黒のポルシェの窓から腕を出し、銜えタバコをしながら九条《くじょう》が手を振っている。
「やっぱり」
私は、今度こそ頭痛をこらえるように頭をしっかりと押さえた。
P.3
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
「仁科、今終わりか?これから飯でも食わねー?」
この状況を知らずに能天気に笑ってるその整った横っ面に今すぐ張り手を食らわせたい。
「あ、あんたいつ東京に戻ってきたわけ?」私は女の子の群れから一人離れると、九条の車に近づいた。
「あー、悪い。三日ぐらい前かな?この前言ってた日本料理屋行こうぜ」
「あんたっていつも何で急なのよ」
私が声を潜めて九条を睨んでいるときだった。
「えー、仁科さんの彼氏さんですかぁ?かっこいい!」
女の子たちの視線が九条に移った。予想していなかった最悪の事態。
上半身しか見えなかったが、今日の九条は黒いジャケットの中に白いカットソーを着ていて、真冬だって言うのに襟ぐりに濃いサングラスをかけている。いつものように髪をラフにセットしてあって、左耳には輪っかのようなピアスが三つ光っていた。
そう
どこからどーみてもこいつは
ホスト。
P.4
でも勘違いしてもらっては困る。私はこいつの客じゃない。東京を離れていたのも、大方客の一人と遠征旅行でもしていたのだろう。
「違っ!こいつとは単なる腐れ縁。彼氏とかじゃないから」
と慌てて否定するも秒の単位で噂が回るこの会社で明日の朝には『仁科さんて、ホストに貢いでるらしいよ』とあちこちで言われるに違いない。
くらり、と眩暈が起きた。
腐れ縁、と言うのは間違いない。中学からの同級生だから。
「じゃあ、本命は前田さんですかぁ?」女の子達が興味津々で目を輝かせている。
「前田??ひどいなー、仁科ぁ。俺たち何度もセック……もがっ」
最後の方が言葉にならなかったのは私の手が九条の口を塞いだから。
ふざけんな!何言い出すんだこいつぁ!!
空気読めっつうの!
と言うことを目で訴えると、流石に冗談が過ぎたと思ったのか九条は苦笑い。
「で?行くの?行かないの?」せっかちに聞かれて
「わかったわよ!行くわよ」半ば怒鳴るように九条を睨みつけると、私はそそくさと助手席に回った。
「それじゃ、私はこれで。お先に」女の子たちにはなるべく平静を装って、にこやかに手を振る。
ため息をついて車の助手席を開けると、運転席から九条が笑顔で手を差し伸べてきた。
「ただいま、仁科」
昔とちっとも変わらない笑顔。眉が下がり、目を細める、優しい笑顔。そして時々その低い声で呼ばれる、自分の名前。何だかくすぐったいが、この笑顔を向けられたら、たとえ九条の勝手に振り回されても、赦せてしまう。
「……おかえりなさい」私は俯くと、小さく返事を返した。
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前述した通り私と九条とは中学からの付き合いだ。かれこれ十年以上の付き合いになる。十年、と言う歳月は長く感じられるけれど、その間に音信不通になったり、そしてどこからか連絡先を入手して電話を寄越して来たり、をだらだらと繰り返している。
でも、私たちははっきりと『付き合って』はいない。もちろん九条のブラックジョークの『体の関係』もない。
あるのは中学生から変わらないノリと
私が九条のこと「好き」
と言うことだけ。歳を重ねて、九条がホストになって……あ、今はホストじゃなくホスト店を経営してるオーナー様でもあったかしら。とにかく環境は変わったものの、不変的な何かは確実に存在している。
パワーウィンドウの外をちらほらと雪が降っていた。
「北海道行ってきたんだ~土産に蟹買ってきてやったぞ」と九条は運転しながらどこか楽しそう。
「北海道……ここより雪が多そうね」ぼんやりと呟きながら、九条に気づかれない程度にこっそりと、外気との差で曇った窓ガラスに、人差し指で
『好き』
と書く。
私の書いた文字は私の体で隠れて九条からは見えない。
「蟹すきしようぜ~、お前んちで」
「何であんたを一々上げないといけない?」
言い合いをしながら、やがて私のマンションに着く頃にはみぞれになった大粒の白いものが私の『好き』をかき消す。
「だってお前んち床暖あるじゃん?」
「そんな理由かよ」
中学生から変わってないこの関係とノリ。
今はまだ―――
この関係でいいや。
~FIN~
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